これがボディワークだ 進化するロルフィング
小川 隆之 斎藤 瑞穂
アイダ・ロルフはロックフェラー研究所で生化学者として働いていたひとだ。ヨガ、カイロプラクティック、オステオパシー、アレクサンダーテクニーク、ホメオパシーなどを学び実践しながら、一時はカークスヴィルにあるオステオパシーの学校で講師も務めた。
当初ロルフィングは治療手技として始まったが、この本を読むかぎり、だんだんボディワークとしての色が強まってきているよう。ロルフィングを身体教育(ソマティックエデュケーション)とみた場合、同時に治療モデルは成り立たない。クライアントは受け身ではなく、主体的にセッションに取り組むことを求められる。ロルファーはクライアントの身体感覚の拡張、深化をあくまで補助する、という立場らしい。
ロルフィングという言葉をはじめて知ったのはトーマス・W・マイヤースのアナトミートレインだった。そのときバックミンスターフラーのテンセグリティという概念にもはじめて触れた。その後しばらくしてクリニックの勉強会でArchitecture of Human Living Fasciaをやったときに、映像をみながらファシアやテンセグリティというものがおぼろげながらイメージできた。
アイダ・ロルフは、ずいぶん前からファシアに言及している、先見の明のあるひとのよう。個人的な感想として、ボディワークと呼ばれるものは、書籍を読んだだけでは、よくわからない。そのわからなさについて、本書で書かれていることは、だいたい以下のようなもの。
感覚には上位のものと、下位のものがある。視聴覚は上位で、触味嗅覚は下位。その理由は、対象との距離だという。つまり、より客観化できる感覚が上等だとされてきた。ベースにはプラトン・デカルト以降の心身二元論がある。アリストテレスによれば、より対象の差別性を認識できる優れた感覚は視覚だという。言うまでもなく、ひとの感覚情報の認識は、多くを視覚に頼っている。
しかし、ボディワークというのは身体感覚の探求で、身体図式の再構成を行うもの。視覚も当然含まれるが、おもに内的な運動感覚を養うものが多い。
自転車に乗れるようになったときに、乗れなかったときの感覚には戻れないような変化は、多くのひとが味わっているはずであるし、なんらかのスポーツに取り組んでいたひとならなおさら、技能習熟の過程で身体感覚的なブレークスルーを確かなものとして経験してきたと思う。
けれど、やってみたひとにしかわからない、わかったひともそれを説明するのが難しい。可視化できない感覚的な確実さは、なかなかひとには伝わらない。そのあたりが、ボディワークのわかりにくさの理由かと思われる。
長らくロルフの著作は翻訳許可がおりなかったらしく、あまり日本語ではお目にかかれないので、ちょっとずつ原書ものぞいてみたい。
(塩﨑 由規)
出版元:日本評論社
(掲載日:2022-07-11)
タグ:ロルフィング
カテゴリ ボディワーク
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