xはたの(も)しい 魚から無限に至る、数学再発見の旅
スティーヴン・ストロガッツ 冨永 星
避けてきた数学
数学というのは、学生時代は、できればおつきあいしたくないものの1つであった。
それでも大人になるにつれ、さまざまな場面で数字で表わされる事柄を見ると、やはり逃れられないのだなと感じる。仕事に就いた今も、数字と向き合わない日はない。学生時代にもっとしっかり勉強しておけばよかったと今さらながら思っている。そういう負い目もあり、時折、数学や物理に関する本に手を出してみたりもする。
書店でふと本書と目があってしまった本書の原題は「The joy of χ -a guided tour of mathematics, from one to infinity」。「χの喜び 1から無限の数学のガイドツア-」かぁ。なんだか難しそうだが、面白そうでもある。思った通り、難解な部分もあるが、エッセイとして読むのには文句なく面白く、ところどころにある例題に立ち止まり、じっくり考えてみるのも楽しかった。
導いた答えは
「1週間の休暇を取ることになったあなたは、出発する前に、ぼんやりした友人に弱っている植物に水をやっておいてくれと頼む。水やりを欠かすと、その植物は90%枯れる。そのうえ、ちゃんと水やりをしても枯れる確率が20%、さらにその友人が水やりを忘れる可能性が30%。このとき、(a)植物がこの1週間を乗り切れる可能性、(b)あなたが戻ったときに植物が枯れていたとして、友人が水やりを忘れた可能性、(c)友人が水やりを忘れたとして、戻って来たときに植物が枯れている可能性はどのくらいか」
このような実際的な問題は、私たちの身の回りに数えきれないほどある。
日々、好むと好まざるとにかかわらず、必要に迫られてどうにか対処しているのだが、どうも数学というのは実際とちょっと違うのではないかと感じるときもある。
この友人に水やりを頼む問題も、どれとどれをかけ合わせるべきなのか、わけがわからなくなる。そこで私が導いた答えはこうだ。(a)(b)(c)ともに50%!。枯れるか枯れないか、水をやったかやらないか、2つに1つだからだ。
水やりを欠かすとその植物が枯れる確率は90%ということだが、言い換えると10回に1回は水をやらなくても枯れないということである。しかし、タイムマシンでもない限り、同じ植物と条件で10回試してみることは不可能だし、そもそも、忘れる可能性が30%もある友人にこんな大事なことを頼んではいけないのではないか、とつい余計なことが気になってしまう。
わからないなりに楽しい
科学的思考ができない奴だと言われるかもしれない。著者も「このような問題で正しい答えを得るには、全てが確率通りに起きるとみなす必要がある」と書いている。しかし、やはり、10回中1回の確率だとしても、最初の1回目だけが現実の結果なのだと思う。10,000回に1回の確率と言われていることが連続で起こることだってあるだろう。
単純化することで、却って自分が感じている実感と数字との間に隔たりができる。なんとなくうまく言いくるめられているような妙な警戒感を持ってしまう。その挙句、数学など閑人が小難しい理屈をこねて悦に入っているだけなのではないかと思ってしまう。ついていけない者の僻みだろうか。「数学とは元から存在するものを人が“発見”するのだろうか? それとも人間による“発明”なのだろうか?」という議論が古くからあると聞く。eとかiとかπとか√とか、そういうものは人間が考え出したのであって「元から存在する」のではないだろうと思う。
一方で、私が見えていないというだけで、実際にそこらへんにあるのではないかという気もしてくる。
数学者たちには、私には見えない世界が見えていて、私には分からない言語(数式)で会話をしている。残念ながら私には「x」に喜びも楽しさも頼もしさも感じられないし、無限に微分積分に正弦波に指数・対数…とクラクラしそうなテーマが続く。それでも、ぐいぐいと読み進めてしまう力が本書にはある。きっと、著者が「ね、面白いでしょ」と無邪気に話しかけてきているせいだ。翻訳本によくある日本語の違和感も全くなく、読みやすい。
この「ガイドツアー」で全く別の世界をのぞき見させてもらい、自分の知らない世界の存在を感じ、わからないなりにとても楽しかった。
(尾原 陽介)
出版元:早川書房
(掲載日:2014-12-10)
タグ:数学
カテゴリ その他
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