寄りそ医 支えあう住民と医師の物語
中村 伸一
役に立つ機能から離れて
体育とは“体で育む”と読みたいものだと、しばしば本コラムでは述べてきた。体育の本質がそうあってほしいからである。“からだ”で表現し、“からだ”を見つめ、“からだの声”に耳を傾けるといった身体感覚に気づき、人と人との間に“体で”何かを“育む”ということは“体を育てる”こと以上に大切なことだという考えが頭に浮かぶ。いったい何を育むのだろう。それは“愛”であったり“信頼関係”であったり、要するに“絆”を互いの体を通して育むことだ。“からだ”をみつめるということは、“いのち”を見つめること通じることであると思うのだ。
そもそも人が体を動かすのは“心地いい”と感じる何かがそこにあるからだろう。その上に、たとえば競技での成功を目指したり、自己実現のため、健康増進・維持のため、あるいは美容ダイエット(減量)を決意してなどなど、さまざまな動機を乗せて運動やスポーツを実施している人が多いことと思う。そして、それらの運動を安全に、効果的に行うための役割を“体を育てる”体育は担っている。
このような“体を育てる”体育が重要であることは論を俟たないところであるが、この考え方に重きを置きすぎると、何らかの理由(高齢・病気・事故)で歩くことが困難になった人や、あるいは寝たきりになった人に対して“体育”は成り立たなくなってしまう。人の体力には限界があり、命にも限りがあるからだ。
いっそのこと、さまざまな“役に立つ機能”を取り払ってしまい、“心地いい”というエッセンスだけを“体育”の場に残してみると、マッサージをすることや、手を握ること、究極的には近くに身を寄せることだけでも互いの体から発せられる信号を感じ合い、その場に“体で育む”体育が成立するといえるのではないだろうか。
“寄りそう”医師
さて、本書「寄りそ医」である。私の勤める自治医科大学の卒業生、中村伸一の手になるものだ。本学は“医療の谷間に灯をともす”(校歌より)ため、へき地での医療や地域医療を支える目的で、1972年に開設された大学である。中村は、その12期生として卒業し、福井県の名田庄村(現おおい町名田庄地区)の診療所で一人常勤医師として、医師としてだけでなく包括的に村の医療を支え続けている「アンパンマン」である。
専門医が「さっそうと現れて難しい手術をこなす」「かっこいい外科医」のような「ウルトラマン」的存在だとすると、総合医は「人の暮らしに寄りそう地域医療者」であり「医療スタッフはもちろん、ジャムおじさんのような村長やカレーパンマンみたいにパンチの効いた社協局長、メロンパンナちゃんを思わせる看護師や保健師、介護職に支えられる、アンパンマン」的存在だ。しかし、「うまく連携することで両者の特性が、より活きる」ものなのである。
地域の診療所では、患者を「看取る」割合が都市部の病院に比べ高い。しかも「家逝き看取り」の割合が、この名田庄村では全国平均より圧倒的に高い。これは医師の力のみでなく、地域の福祉体制や、住民の意識などの条件がよほど揃わないと叶わないことである。医者が患者を診るという関係より、互いに“寄りそい””寄りそわれる”関係で日々の診療がなされていないと、こうはなりそうにない。
高齢者がガンなどの疾病や老衰により比較的静かに亡くなっていくとき、中村は医師として“医学”的手段を振り回すのでなく、“医療”者として(今は亡くなっている)患者とその家族に静かに“寄りそう”のである。家族もまた中村に“寄りそう”姿は、悲しくも崇高な場面である。
学生(医学部に限らない)という、生身の体を相手にする体育教師の仕事ってなんだろう。やはり“体で育む”体育の場をつくることがまず基本なのだと思う。そしてその基本を実践するためには、“寄りそう”ことがスタートであり、ゴールでもあるような気がしている今日この頃である。
(板井 美浩)
出版元:メディアファクトリー
(掲載日:2012-04-10)
タグ:体育 地域医療
カテゴリ 人生
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