身体のいいなり
内澤 旬子
うらやましい心のしなやかさ
世にあまたの“スポーツ感動物語”があるが、実は主役(選手)にとっては“好きで夢中にやった結果そうなっちゃっただけの物語”を、まわりの感動したい(させたい)者たちが寄って集って感動の物語に仕立てているだけなのかも知れない。“がんばる”ことは選手にとって当たり前のことだからだ。
そんな“がんばった姿”に、私の妻は我慢することなく感動し、大いに涙を流す。スポーツ番組やダイジェスト、さらにはお涙ちょうだい式の“がんばった”物語を観てもそうで、見事に制作者の意図にひっかかり、ボロボロと大粒の涙を流す。そのたび子どもたちから冷かされているが、子どもたちは、そういう母を茶化しては自分も泣きそうになったのをごまかしているのだ。
齢をとると涙もろくなるというが、むしろ感受性が豊かになり素直に反応できるようになった結果がそうさせるのだと思う。心が弱くなったり脆弱になるのでなく、むしろ心がしなやかになるのだ。
うーむ、素晴らしい。妻のような素直(単純?)な人格を手に入れたいものである。私はというと(涙もろい年頃になって早幾年だが)、冷やかされるのが嫌で、バレないよう目をぬぐったりしている体たらくなのだ。
さて今回の『身体のいいなり』は、乳癌を患い、治療の「副作用から逃れたくて始めたヨガにより」、癌の発覚前より「なぜかどんどん元気になっていった」自らの体験をつづったエッセイである。決して“闘病記”ではないと著者の内澤旬子はいう。闘病記とは、よほど「進行した状態の癌の治療に向き合う場合」をいうのであって「初期癌の治療で『闘う』と言われても、気恥ずかしく申し訳ない気持ちで一杯になる」のだそうだ。「世の中にはもっともっと苦しい、それこそ文字通りの『闘病生活』を送っている人がたくさんいる。それに比べたら私の癌なぞ書くほどの体験と思えない」という気遣いもあってのことなのだろうと思う。
身体の声を聴く達人
「生まれてからずっと、自分が百パーセント元気で健康だと思えたためしが」なく、「『病気とはいえない病気』の不快感にずっとつきまとわれてきた」身体がどんどん元気になってきたというのだ。その体調のよさとヨガとの因果関係はわからない(著者も言及していない)が、しかし小さい頃から「じりつしんけい、とか、きょじゃくたいしつ、という言葉を聞き知って」おり「当然のことながら、運動は大嫌い」だった著者が、「筋肉オタク」を自称するまで「ヨガ」にハマっているのである。その理由は「気持ちいい」からだ。「マット一枚のスペース」があればでき、身体によさそうなヨガを「スピリチュアルなものとは距離」を置きつつ恐る恐る始めたところ「なんの魔法をかけたのですかというくらい」「布団に入った瞬間にことりと眠りに落ちた」ほどに不眠から解放されたのだ。そして「そのうちに終わった後、身体の真ん中、心臓の裏側あたりが強烈に気持ち良くなる」身体感覚との出会いで決定的にヨガが好きになっている。運動など苦手でも、このような身体の声を聴けることは立派に“体育の達人”といえる。
癌以前にも「足指を一つずつつまんでほぐしてもらい、身体のどこかに手を当てて、身体の中に流れのようなものを作るという」「操体」という「治療術」で「ある日突然、腕がくるくる」と「動かしたかったように」動くという体験をしている。さぞ気持ちよかったろうと思う。
この“キモチイイ”というキーワードは重要で、ちょっとしたボタンのかけ違いで“がんばる”ことが先行すると、いとも簡単に人は運動嫌いになってしまう。
身体は、がんばりたい?
「『がんばって』は私がなにより嫌いな言葉」なんだそうだ。しかし治療に関して著者は「それなりに大変な思い」と控えめに表現はしているものの、「二度の部分切除を経て乳腺全摘出、そして乳房再建と手術」を重ねるなど、相当な修羅場をくぐって癌と闘い、“がんばって”生きてきたことは想像に難くない。
表紙のイラストにしても、裸の女性が右手を植物に絡まれながらも、左手で乳房を引ん剝いて“病気のいいなりになんかなるものか”とばかりにベロを出し、がんばっているではないか。“がんばる”という行為は、“キモチイイ”という身体感覚の反対側にあるようなものかもしれない。だけど運動の“キモチイイ”を知っている人は、“がんばった”先に“キモチイイ”が待っていることも知っている。
そんなに“がんばらない”ことにがんばらないで、“がんばりたい”と身体が言っているのだから、がんばる“身体のいいなり”になってもいいんじゃないかなあと、お節介ながら思うのである。
(板井 美浩)
出版元:朝日新聞出版
(掲載日:2013-10-10)
タグ:身体 不調 闘病
カテゴリ 身体
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