ダーウィンの呪い
千葉 聡
現代社会を一瞥してみると、様々な「呪い」が見えてくる。われわれの間を「『進歩せよ』を意味する “進化せよ”」、「『生き残りたければ、努力して戦いに勝て』を意味する “生存闘争と適者生存”」、「『これは自然の事実から導かれた人間社会も支配する規範だから、不満を言ったり逆らったりしても無駄だ』を意味する、“ダーウィンがそう言っている”」という、千葉氏がそれぞれを順に「進化の呪い」、「闘争の呪い」、「ダーウィンの呪い」と呼ぶ、3つの呪いが跋扈しているのだ(5-6頁)。こんなにも「拘束感を滲ませたメッセージ」、あるいは「順守しないといけない、ある種の規範」が溢れかえった世界は、大変に生きづらい(5頁)。何をするにしても、個人主義的な「成長=進化」が望まれ、休む暇もなく努力し続けることが、あたかも義務であるかのようにすら感じられる。私たちは、ナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺や相模原障害者施設殺傷事件を経た世代であり、それらに並々ならぬ危機の様相を感じ取ってきたのではなかったのか? このままでは色々とまずいのではないだろうかという猛烈な違和感に私たちは襲われ、その危機の感覚は20世紀に様々な哲学者によっても語られてきた。その一方で、巷では「マッチングアプリ」なるものが流行し、人間がいわば商品化され、片手ほどの大きさの「スクリーン」という名のガラスケースの中に陳列されている。みなが見栄えの良い写真を用意し、他者から好かれるであろう文言を自己を規定するために並べ立てる。世界は、人間という存在が指先一つで選別されるような場所になってしまった。さらには、MBTIなるもので自分を飾る始末である。私たちは、どこかで何かを根本的に間違ってきたのではないか?
「呪い」のもとにおいては、私を取り巻くそれぞれの他者は、もはや他者一般となり、みなが「敵」であるとみなされてしまう。なぜなら、私は彼ら/彼女らに勝ち、生存せねばならないからだ。進化しないものには、即ち「敗北」という烙印を押されることになる。生の全体が闘争の場となり、一瞬たりとも気を抜かず、皆を出し抜かなければならない。なぜか?「ダーウィンがそう言っていたから」だ。あるいは、マッチングアプリを例にとれば、他者はみな消費者である。私は、消費者たちから選ばれる存在となるために、常に自己をより良い製品に作り替える必要がある。つまり、「進化」であり、私は私自身の生産者となる。そのような生は、なんと空しいことだろうか。しかし、その一方で、全てが無目的かつ盲目的な運動にすぎない、つまり偶然的な運動だと見限るや否や、未来に対する希望は消え失せる。何をしようが、どのように努力しようが、その結果は偶然にしか左右されず、ある意味では無意味な努力となるからである。このような、ある種の楽観的な闘争と生産、悲観的な偶然性の間で、我々は揺れ動き続けている。
しばしば、企業などが打ち立てる「適者生存」の理念に対して、「ダーウィンはそんなこと言ってない」という批判の石が投げられる。しかし、ことは言った/言ってないというような、単純な二分法のもとで明らかになることではないのだ。ダーウィンが出版した『種の起源』の原著初版においては、「適者生存」という語は使われていない。だが、1869年に出版された『種の起源』(第5版)で次のように言っている。「個体の違いや変異のうち有利なものを維持し、有害なものを駆逐することを、私は自然選択、あるいは適者生存と呼んできた」(50頁からの再引用)。確かに、ダーウィンは「適者生存」という言葉を使っているし、時期によってはその考えに接近していたこともあるようなのだ。「進化論を守るために、修正と妥協を重ねている時期」であったという事情もあったのだろう(50頁)。その一方で、ダーウィンの原理は排除的なもの、つまり適者が生存し、その他は絶滅するといったものではなく、創造的なものに向けられていた。そこにスペンサーがいう「適者生存」との差異があった。しかし、何らかの包含の原理は、常に鏡像としての排除の原理を付き従えている。包み含めるということは、それと同時にその外部を作り出すことでもある。進化論に価値の問題が結び付けられ、適者による未来のユートピアの実現が結びつけられた場には、すでにディストピアが実現している。進化論がイデオロギーと化したとき、我々は常に誤った轍を踏んできた。では、われわれは進化論をどのように引き受ければよいのか。歴史から学び、未来を展望するために向き合わなければならない問題は山積している。本書は、その旅路に付き添う良き伴走者となってくれることだろう。
(平井 優作)
出版元:講談社
(掲載日:2024-06-17)
タグ:進化論
カテゴリ その他
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