アイロンと朝の詩人 回送電車 III
堀江 敏幸
走り方に出てくるもの
走り方には人が出る。
人それぞれの個性を特徴づけるものはいくつもあるが、私にとって極端に違いのわかるのが全速力で走ったときのフォームだ。言葉をどれだけ重ねるより、その人が走っている姿を見ればいっぺんにどんな人かがわかるような気がする。頭で理解するとか言うのでなく(科学的でない表現を承知のうえで言えば)肌で感じるのである。
走るフォームには人それぞれの身長や体重、手足の長さあるいは筋の出力特性といった解剖学的・生理学的特性も関係しているのはもちろんだが、しかしそれ以上に性格とか気質あるいはもっともっとプリミティブなものが深く関わって「ホントウノワタシ」が表出するように思う。
豪放磊落で通っている人が几帳面で神経質な走り方をしていたり、逆に普段は穏やかな紳士と認識されている人格者が、走ってみたら気性の荒さが丸出しになったりするのが判って面白い。顔や名前は忘れてしまっても走るのを見たら誰だったかどんな人だったかが思い出せた、などということもよくある。
なぜわかるのか
この感覚はしかし私に限ったものではないと思う。とくに多くのスポーツ関係者、とりわけコーチやトレーナーなど選手の動きをよく観察する立場にいる人たちならより鋭い解読能力を持っているだろう。走り方に限らず、跳ぶ・投げる・打つ・舞う、などの運動動作から応用することも可能であるに違いない。さらには書画や陶芸、音楽などの芸術作品の中にも、見る人が見ればわかる作家の個性が潜んでいることに異を唱える人は少ないと思われる。
なぜ、そんなことが見たり聞いたりするだけでわかるのか?
それは“全力で走る”あるいは“全力で表現する”ということは小手先の技術や理論では武装できないところであり、その人に染み付いた“身体のクセ”のようなもの、すなわち、つくり手の生の姿が身のこなし方や作品に投影されてくるからではないかと思う。
文章も例外ではなく、言葉として書かれている内容とか意味とかとは別次元のところ、つまりリズムやテンポ、字面からただよう空気感などから、作者の趣味嗜好品格人柄が浮かび上がってくるような気がする。
組み合わせが創造に
さて今回紹介する書籍だが、体育の本でもトレーニングの本でもない。散文集だ。
ただし、いたるところに身体や動作についての詳細な観察場面が出てきて、独特の清潔感と静けさの中で語られて行く。
1つひとつの題名からは、トレーニングとの関連どころか、それらが何を意味しているのか連想することさえ難しいエッセイが並んでいる。しかし一見無関係で妙な組み合わせに思える話が、読み進むに連れてそれぞれの関係性が解き明かされ、ジグソーパズルをはめるように最後にはちゃんとつじつまが合って決まる。そして何となくだが、だんだんとなぜこの本が「アイロンと朝の詩人」という題名なのか、副題にどうして「回送電車」とあるのかが伝わってくる。
“創造とは組み合わせの問題である”と誰が言ったか知らないが、よく言われることである。組み合わせとは基礎の応用であって、何かと何かを組み合わせることでそれぞれにはなかった新しいものを生み出すことができたとしたら、それは何か1つの創造をしていることになる。
こういう人が身体動作について考える文章の中に、新しいトレーニングのヒント(組み合わせ)が隠れていないだろうかと思って読みながら、「文章がすうっと身体に入ってきた」なんていう表現を創りだす人が、いったいどんな走り方をするのか見てみたい衝動に駆られるのだ。
(板井 美浩)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2008-08-10)
タグ:散文
カテゴリ その他
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