他者といる技法 コミュニケーションの社会学
奥村 隆
昨今の“グローバリズム”というのが大変難しい概念に思えてならない。ロシアによるウクライナ侵攻はじめ、昨年度にはイスラエルによるガザ地区への過度な攻撃などの世界各地での争いごとや、毎年生まれる新たなエンタメ作品など、我々は長方形の片手サイズの電子機器を通して見聞きする。加えてどこかの国の大手エンターテインメント会社の会長のスキャンダルが自国のメディアではなくBBCの報道により世に広まるというお粗末な世界線も存在していた。
そんな一個人の身体を大いに飛び越した情報の濁流にのまれることにより暇がない日々を送っている現代人にとって、今一度“コミュニケーション”について考えるというのはそこまで無駄な営みではないように思える。どれだけ長方形の電子機器とにらめっこしていても、目の前にいる生身の”他人”との時空間の共有は避けられない。まぁbitの単位としての“他人”という存在もあるが、どちらにせよ“他人”っていうのが生きていくうえでは厄介にならざるを得ないのは、これを読んでいるあなたにも理解できるだろう。
しかし“コミュニケーション”と一口にいっても様々な文脈がある故、いまいちピンとこないと思っていた矢先に今回題材とする本書を見つけた。
本書は序章~第六章構成となっている。
第一章では、「思いやりとかげぐちの体系としての社会」というテーマで、社会の「原形」をモデリングし、その中で起こる困難さを描いている。奥村は存在証明という視点から、他者による承認の体系を論じそこから派生せざるを得ない葛藤の体系を描出する。この「承認と葛藤の体系としての社会」を「原形」とし、この「原形」が抱える問題を解決する体系として、「思いやりの体系」を論じる。しかし「思いやりの体系」も同様に体系自身が作り出してしまう問題があり、それを解決するために「かげぐちの領域」があると展開する。このような「承認と葛藤の体系としての社会」というモデリングを基点とすることの良し悪しを大局的に描いている。
第二章では、「『私』を破壊する『私』」というテーマで、第一章に引用していたR・D Laignの統合失調症についての議論を用いて、「存在論的不安定においての他者による承認によってもたらされる“危機”に対する戦術」について論じられている。そこからそもそも「存在論的不安定」な状態に置かれるコミュニケーションパターンとは何かという問いから“家族という存在”について展開していく。
第三章は、「外国人は「どのような人」なのか」というテーマ。“異質性”を前にしたとき私たちはどのような「技法」を身につけているのかという問いから始まる。朝日新聞と週刊誌の記事から「外国人─女性労働者・留学生、就学生」というジャンルで分析をし特徴を紹介した後、それらから抜き出せたマスメディアのラベリングの特徴を「客体−主体・ネガティブ−ポジティブ」のマトリクス表で整理。そこから「異質な他者のまま」その”主体”と向き合う技法は何かと展開していく。結語としては、その技法が何かはマスメディア分析では見つからなかったが、考えていくべき対象であることには違いないというものだった。
第四章、「リスペクタビリティの病」は、社会学者ブルデューの高級ホテルでの振る舞いから見る階級別の特徴から、中間階級の病である「いまある私」と「あるべき私」のズレを論じた話を、同じく社会学者のホックシールドの「The managed mind」の感情管理における「表層演技」「深層演技」に繋げて、「リスペクタビリティ(きちんとしていること)」から陥る病を繋げて論じるというダイナミックな展開であった。また、リスペクタビリティのもう一つの病として、リスペクタビリティを他者に強いることを挙げ、歴史学者のMooseがナチズムと関連づけて展開しているものを引用していた。
第五章、「非難の語彙、あるいは市民社会の境界」では「自己啓発セミナー」に関する週刊誌の記事分析から我々の持つ技法と「社会」を編成する様式を検討するというものであった。セミナー記事の語彙分析から、「過剰な効果」として非難する傾向と、「過小な効果」として非難する傾向を見出した。それらを踏まえて、現在の「私」をつくる技法が「コントロール不可能性」を基軸とするのか「コントロール可能性」を基軸にするのかという問いを考察する展開があり、「市民社会」という概念を巡るエリアスの議論を用いて「コントロール不可能なもの」を処理する空間についても考察していた。最後に「自己啓発セミナー」に対する非難の性差について言及していたが、データの偏りや不十分さからあくまでの仮定の話をしたに過ぎなかった。
そして第六章。「理解の減少・理解の過剰」。「他者といる技法」というタイトルを見て購入を検討した人はこの章を読めば満足できるだろう。「他者と共存することはいかにして可能なのか」という大きな問題を「理解」という技法に限定して展開している。議論のたたき台としてアルフレット・シュッツの「理解」についての構図を紹介した後に、他者を理解することの構造や「理解の過小・過剰」による苦しみ、それらと「暴力」「差別」の関係を考察していく。その過程で他者と「共存」するためには「理解」という技法にとらわれず別の技法、「わかりあえないままいっしょにいるための技法」について検討する必要性を論ずる。そして最後その技法について述べていく。
大まかな構成はこのような感じだ。各章はそれぞれ独立した文章を基にしているため、どこから読み始めても問題はない。筆者のコミュニケーションにおける大局的な視点が十分に盛り込まれている書籍となっている。
各章毎に疑問に思ったことや言いたいことはたくさんある。しかしこの世の中は各個人毎の欲望で成り立っているわけではないことはあなたも重々承知だろう。
各章の外面を書きだすだけで一杯になってしまった。そこで最後の悪あがきとして、第六章で「わかりあえないままいっしょにいるための技法」として筆者から提示された、「話しあう」について思ったことを垂れていく。
筆者はこの技法は、「いま『理解がない場所』にお互いがいることをはっきりと認めることなしに始まらない」(p294)と述べる。これを前提として「話しあう」というのはある2つで構成されているという。
1つは「尋ねる・質問する」。これは「わからなさ」に付き合っていこうとするときにのみ開かれる。もう1つは「答える・説明する」。これは相手が私を「わかっていない」と感じるときにしか始まらない。この2つで構成されている「話しあう」は、わかりあうという「理解」を進めるための時間ではなく、「わかりあわない」時間の過ごし方についての技法であると筆者は述べる。
「わかりあわない」というのは「他者」を「他者」のまま発見するという回路が開かれているというもので、居心地は良いとは言えないがたくさんの発見や驚きを与えてくれるとも述べていた。
本書は「他者といる技法」をビジネスライクに呈示する易しいものではなく、我々が普段何気なく行っているコミュニケーションパターンを概念を通して再認識かつ再検討していく構成となっている。そしてその過程でいかに我々が「理解」という技法に固執しているか。というのが本書の核心であり、そうでない技法について考えていく土台となるような意図が込められている。そのため、タイトルに吸い付いた私みたいな輩は「話しあう」というのが展開されたときポカンとするだろう。
しかし、コミュニケーションというのはそんなものなのかもしれない。私と他者の間に何か強力な装置をおいて進歩していくものではないのだ。
本書でも述べられているように、「理解」における“原理的”な基準と、“実践的”な基準は全くもって異なる。アルフレット・シュッツが言うように、コミュニケーションは原理的には不可能だが、実践的には不都合がないのだ。だからこそ「わかりあえなさ」を忘れて「理解」の沼にとらわれてはいけないのだ。私と他者の間の谷は大股で跨げるようなものではないのだ。それを数百ページにわたってちゃんと考えさせてくれる書籍であった。
(飯島 渉琉)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2024-05-14)
タグ:コミュニケーション
カテゴリ その他
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