あわいの力 「心の時代」の次を生きる
安田 登
こちとら体育教師、だが驚いた
きっかけは、オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』(岩波文庫)だ。
大正から昭和にかけ東北帝国大学の招きで哲学を教えにきたヘリゲルが、日本文化に触れるため習った弓術を通して知った西洋人と日本人のものの見方の相違を、ドイツ人らしく論理的に説明した講演の記録だ。矢をいかにして的に当てようかとする西洋の考え方に対し、日本の弓術ではなんと、“的を射ようとしてはいけない”のだ。けれど当たらないといけない。しかも、弓を引いた“私”が当てるのではなく、“矢”が自ずと的を射る、という身体のあり様を善しとする、というような内容だった。
ある日、ドイツ語の教授(本職は哲学)にお茶飲み話の中で、体育教師なら読んどかなきゃダメだよと言われ、てやんでい、こちとら体育教師だい、身体のことに関しちゃオイラのほうが......と、なぜか江戸っ子となって息巻いて読んだら、ひっくり返るほど驚いたのを覚えている。
“体育”そのものへの疑問から舞踏へ
身体を科学的に認知するのが一番偉いと思い込んでいた私だが、しかし思い当たることはあった。身体の大きさを把握するもっとも基本的な指標として身長・体重が測定されるが、体調の良し悪しとか元気の度合い(オーラ?)によって人は大きくも小さくも見えるし、“寝た子は重い”というように、オンブの仕方で人は重くも軽くもなるではないか。私たちは身体に対して科学的に認知するよう刷り込まれてきている。しかし、ここにおいて体育の授業、というより“体育”そのもののあり方に疑問を抱くようになっていった。
そこで思いついたのが“何だかわからないものを習ってみよう”ということで、舞踏ダンサー滑川(なめりかわ)五郎の門を叩いた。舞踏(Butoh)とは、日本が発祥とされる前衛ダンスで、バレエに代表される西洋舞踊(舞い踊る)の“動的”なダンスに比べ、舞踏(舞い踏む)の名のごとく、どちらかと言えば“静的”な動き、時には全く動かずに身体から発する殺気だけで沸き立つ情念を表現しようとするものである。
滑川は、天児牛大(あまがつ うしお)らとともに組んだ山海塾で、ワールドツアーを敢行した。まるで“能”のようだと、はじめはヨーロッパで評価され、日本へはむしろ逆輸入の形で紹介された。山海塾から独立した滑川が、大谷石(帝国ホテルなどの建築で使われた岩石)の採石場近くにスタジオを構え、ワークショップを開催していたのである。
片道1時間ほどの道のりを通い、2011年の秋に滑川が急逝するまでのほぼ10年にわたって(後半はほぼ幽霊の劣等生だったけどね)、毎回毎回、目からウロコの刺激的な体験(雲の上を走るとか、石像が数万年かけて崩れていく様とか、横臥する10メートルのお釈迦様を泡で洗うとか、ナンダカワカラナイこと)をさせてもらった。なんとなく見えてきたような、でもその気づきについてまだまだ教えてほしいことだらけだった。しかし滑川のレッスンは、“体育”に対する視野を広げ、思考を深めるヒントを、山ほど私の身体に刻み込んだ。
間(あわい)にあって媒介するもの
さて今回は『あわいの力』。
「能には、シテとワキという二人の主要な登場人物」がいる。主役であるシテに対してワキは「装束も地味で、目立った活躍をすることも」なく「ほとんどの時間、舞台の上でじっとしている」。ワキの役割は、「自分の身体」を「道具」としてシテの手助けをし、「『あっちの世界』と人間とを」「『媒介』する」ことにある。「この『媒介』という意味をあらわす古語が『あわい・あわひ(間)』」というのである。「あわい」という役割は、「ワキ」特有のものではない。シテにもシテなりの、能には能の、舞踏には舞踏の、体育には体育の「あわい」の振る舞い方があると思う。一見、地味で役に立たなそうなこと(教養とか)、目に見えないこと(建物の土台とか)が重要な役目を果たしているというのはよくあることである。
滑川にもらったヒントが私の身体の中で寝かされ、やっと答えらしきものが口にできるようになった。そこにあらわれた本書には、明快な答えがたくさん書かれていた(負け惜しみを通り越して腹立たしいほどに)。中でも「教師は現代におけるワキの担い手」というのにとどめを刺された。
(板井 美浩)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2014-06-10)
タグ:教育
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:あわいの力 「心の時代」の次を生きる
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:あわいの力 「心の時代」の次を生きる
e-hon
不安や緊張を力に変える心身コントロール術
安田 登
普段生活をしているとき、私の「体調」と「気分(精神状態)」の境目はどこだろうか。これは勝手なイメージだが、スポーツをする人はフィジカルとメンタル、のようにきっちり分けて考えているように思う。私はどちらかというと今日はいいことがあったので調子がいい、とか、頭が痛いから気分が優れないな、と体調と気分を混同している。心配事があればお腹が痛くなったりするし、身体のどこかが痛ければ気分も優れないというものである。
この心身の不調の元になりやすい「不安」や「緊張」だが、たとえば「呼吸の方法ひとつで、やる気は失われずにネガティブな感情を抑えることができる」と聞いたらどうだろうか。ちょっと「そんな都合のよいこと…」と思わないだろうか。私は思う。正直に言うと、私は啓発本の類が苦手である。「一日◯◯分これをするだけで」とか「これで全てうまくいく」とか、眉唾すぎて手に取る気になれない。なのになぜ、この本を手に取って読んだか。それは著者の安田登さんが能楽師だからである。
とあることから能について勉強しなければならなくなったとき、全国の、主に小中学校を回って能のワークショップを行っておられる安田さんを知った。そして講演を聞いたり、公演を観たりしに行くときに予習としていくつか著書を贖った。これはその延長で入手したものだ。安田さんの著作は多数あり、能の魅力についてももちろんだが、こうした能という伝統芸能の所作から身体の使い方を考察したものも数多くある。この本の中に出てくるロルフィングというボディーワークについても、安田さんは、その持ち前の好奇心とフットワークの軽さでアメリカまで行って施術者の資格を取り、それを専門に紹介した本を出しておられる。
ところで先に述べた「呼吸の方法ひとつでやる気は失われずネガティブな感情を抑えることができる」というのは能の謡のときの呼吸で、安田さんは「舞台のときは緊張するのに謡を謡っているときだけ緊張していない」ことからそれに気づいたそうだ。私が「こうすればうまくいく」系の本をあまり信用していないにもかかわらず、この本を買って読んでしまったのには、安田さんの提唱するあれこれに、そうした650年も続いている「能」というものによる裏打ちがあるから、というのがある。
本書にはこのようにメンタルに影響のある呼吸のことだけでなく、能の所作が大腰筋を鍛えることになるから能楽師は歳を取っても元気で80、90でもまだ現役でいられる、というような身体のことについてもその例やトレーニングが紹介されている。また興味深いのは、不安や緊張など、うまくいかないことに際しての、ものの考え方である。物事がうまくいかないとき、そのことをどう捉え、どう向き合うのか。
本書には自己イメージやサブ・パーソナリティというものも出てくる。それがどういうものなのかは、私の下手な説明を見るより本書を読んでいただいた方が断然早い。チームがうまくいかないとき、自分のやっていることに手応えを感じられないとき、もしかしたら本書にはそれを打開するようなヒントがあるかもしれない。
(柴原 容)
出版元:実業之日本社
(掲載日:2022-06-20)
タグ:メンタル 不安 呼吸 能
カテゴリ 身体
CiNii Booksで検索:不安や緊張を力に変える心身コントロール術
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:不安や緊張を力に変える心身コントロール術
e-hon
三流のすすめ
安田 登
なんとなく集団がうまくいっていない。そんな経験をしたことがある人はいるのではないかと思う。私も何度も経験した。なんとなく雰囲気が澱んでいる。何がというわけではないのだが、ギスギスしている感じがする。そのときに私がずっとやっていたのは、個々の技術的な問題を解決するのに時間を割くということだった。
個々が自分の課題をきちんとできるようになれば、そのことによって自信がつき、他人のことを過剰に気にしなくなるのではないだろうか。他人と自分を比べて必要以上に落ち込んだり自分を責めたりしなくなるのではないだろうか。自分ができないからといって他人の足を引っ張るようなことはしなくなるのではないだろうか。今、目の前にあることを一生懸命やってくれたら、結果はそこについてくるはずだ。ずっとそう思っていた。
だが、どんなにそのことに時間を割いても一向によい方向へ行かない。そうこうするうちに、ポツリポツリと離脱者が出始めた。これはまずい。どうも問題はそこではない、と遅ればせながら気がついた。そこで率直に「どうしたらいいと思う?」とメンバー全員に投げかけてみた。するとみんな「この雰囲気をどうにかしたい」と思っていることが分かった。ではこれからどうしたらよいのだろうか。どんな雰囲気になったら、みんなが気持ちよく過ごせるだろう。理想の集団とは。そのために今すぐできる具体的なことは何だろうか。そんなことをかなりの時間をかけて話し合った。明日からこうしよう、と結論が出たときには、全員に「これからはちゃんとする」(できる)という表情が浮かんでいた。
話し合った結果みんなで決めたことは、ちゃんと挨拶をしよう、とか返事をしよう、とかそのような一見他愛のないことだったが、個々の技術さえ上がれば、何もかもうまくいくと思ってひたすら効率のよい練習方法や効果的な内容などを探し求めていた私は、実は彼らが悩んでいたのは全くそうではなかったということを思い知らされた。そして、その話し合いを機に、まるで別集団のように練習に集中し始めたのは、今でもなんだか不思議な体験として記憶に残っている。
本書には「一流になるとは生贄になること」という一節がある。私がやろうとしていたことはまさに他のことを犠牲にして1つのことを極めようとする、その「一流」のやり方だった、ということになる。よく、四の五の言っていないで練習しろ、練習、と思う。文句があればやってから言え、とも思う。主張したいなら結果を出せ、と。しかし実際は本筋はそこではない、ということは現場にいると割によくある話かもしれない。
題名にもあるように、本書に書かれているのは1つのことを極めて頂点に辿り着く方法ではない。あれにもこれにも興味を持ち、2つ、3つと手を出してどれも極めない。二流、三流というのはいわゆるB級C級のことではなく、1つのことを極める人が一流、2つは二流、三流はそれ以上、というような意味合いで使われている。回り道をすること、寄り道をすること。一見無関係に見えるそれらがあっと驚く場所でつながることもある。それが実は万事うまく行く秘訣かもよ? というようなことではないかと私は解釈している。
自分が面白いと思う方へ気の向くままに進み、脇道に逸れてみる。気が済んだら戻ってきてもいいし、また別の道を探してもいい。問題を解決したいとき、ストレートにど真ん中だけを攻めるのではなく、ちょっと引いたり、別の角度から見直したり。冷静になってみれば当たり前のことなのだが、本書はそんな風に物事の見る角度を柔軟に、自由にしてくれる気がする。もしかしたら今あなたが悩んでいることの、その答えは全く思いも寄らぬ別の場所にあるのかもしれない。
(柴原 容)
出版元:ミシマ社
(掲載日:2022-06-23)
タグ:集中 チームビルディング
カテゴリ 人生
CiNii Booksで検索:三流のすすめ
紀伊國屋書店ウェブストアで検索:三流のすすめ
e-hon