マラソン哲学 日本のレジェンド12人の提言
小森 貞子 月刊陸上競技
世界と戦った人たち
昨年、フルマラソンに初挑戦し、何とか完走できた。タイムは4時間14分。中間地点では、世界のトップならそろそろゴールかな、と考えるだけの余裕があった。その後、楽しかったのは30km過ぎまで。あとはひたすら、早くゴールについて休みたいと考えていた。
さて、本書。12人の“レジェンド”たちが、2020年東京オリンピックで、日本選手がマラソンでメダルを取るために必要なことを語るというもの。登場するのは、宗兄弟をはじめとする一時代を築いてきたそうそうたるメンバー。 内容は提言というよりも体験談という印象。マラソンが強くなる直接的な方法は示されてはいないが、世界と戦ってきた人たちが肌で感じたことを読むことができるよい本だと思う。
余裕をもって、走れるか
本書には、大きな大会前に行った練習メニューが紹介されている。僕のような長距離の素人には、悲しいかな「ものすごくたくさん走っているな」という感想しか浮かばない。一つ一つのメニュー自体には目新しいものはないように思う。しかしその組み合わせ(距離や時間、ポイント練習の内容、ポイント練習とポイント練習との間隔など)が、レベルの高いことを余裕をもってできる力をつけるためのキモなのだということはおぼろげにわかる。
そう、この“余裕をもって走る”ということが、それぞれが共通して発信している重要なメッセージだ。余裕を持って走り続けられるペースを少しずつ少しずつ高めていく。そしてそのためには、矛盾するようだが、限界ギリギリでトレーニングをする。本書の中で、高橋尚子さんがこんなことを言っている。
「『今日の練習、きつくてイヤだな』と思う気持ちが芽生えた時こそ、実は一番伸びるとき。乗り越えなければならない壁にぶち当たって、その壁を乗り越えたら、一段上に行ける。」
そういえば、私が以前レビューを書いた『ウサイン・ボルト自伝』にも「乗り越えるべき瞬間」という言葉があった。「それは、身体があまりの痛みに耐えられなくなり、アスリートに向かってやめろ、休めという信号を発してくる瞬間のことだ。それこそが、成功への秘訣を手にできる瞬間なのだ。もしもその選手がその苦しみを乗り越え、もう2本いや3本余計に走ることができたら、そこから身体能力は向上して、それから選手はどんどんと強さを増していく。」
山下佐知子さんも、指導者としての立場から、もどかしさを吐露している。「トレーナーや栄養士がチーム内にいるのが当たり前になっている中で、本来どんどん踏み込むためにケアするはずが、何かを守る方に行き過ぎている気はする」と手厳しい。「今の選手は・・・」という言葉が多く出てくる。それは、ありがちな若者批判ともとれるのだが、それだけではないと思いたい。
為末大さんは著書『諦める力』のなかで、「スポーツはまず才能を持って生まれないとステージにすら乗れない」と書いている。レジェンドたちは、今の若い選手たちが、せっかくステージに乗れるだけの才能を持っているのに限界ギリギリの練習をしていない、もったいないと歯がゆく思っているのだ(もちろん反論はあるだろう)。私も数あるスポーツの才能の中で、壊れない身体というものがとても重要だと思っている。限界を乗り越えてなお、走り続けられる頑丈な身体というのは、どんな高度な技術よりも優先的に獲得すべき能力だと思う。
準備して楽しみたい
私は本書に登場する選手たちの活躍をリアルタイムで見ていた世代である。中山竹通選手は、ソウルオリンピックで4位入賞を果たしたレース後に「1位になれなければ4位もビリも一緒」と言ったと伝えられる反骨の人。“Qちゃん”高橋尚子選手は、これまでの歯を食いしばって根性でゴールにたどり着くという日本女子マラソン選手のイメージをガラリと変え、風のように駆け抜けた姿が印象的だった。そんな個性的な選手たちが現役時代に何を考え、どのように走っていたかに触れることができる、心躍る一冊である。
さて私はというと、前回のマラソンのゴール直後は「もう2度としない」と思ったはずが、またもやフルマラソンにエントリーしてしまった。走りに余裕など持ちようがないのだが、どんなにレベルは低くとも、走るからにはしっかり準備してマラソンを楽しみたいと思っている。
( 尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2016-08-10)
タグ:マラソン
カテゴリ 指導
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