武術と医術 人を活かすメソッド
甲野 善紀 小池 弘人
とらわれない発想
私事だが、亡父の故郷に祖父が建てたという一家の墓がある。近くを流れる斐伊(ひい)川の上流だかで手に入れたという大きな楕円の墓石は、およそ一般的なそれに見えない。しかも「山根家之墓」ではなく「総霊」と刻まれているのだからなおさらである。手前味噌ながら、まだ父が小さなときに亡くなったその祖父のセンスが私は大好きである。「つまらない常識とかしきたりなんかどうでもいい。固いこと言わんと、入ってきたいモンはみんな入ってきたらいいのさ」というおおらかさが感じられるからだ。おおらかさの中にも俺はこうだよという自分の立ち位置を持っているところがなおいい。
いろいろと仕組みができ上がりすぎて、こうでなきゃならんという根拠に基づく常識とやらが跋扈し、どうにも型破りには生きにくいこのご時世である。そんな社会の恩恵をも感じる一方で、平々凡々たる我が身ながら人と違った自分の価値観を大切にしたいと感じるのはそんな血が関係しているのかもしれない。
新境地を切り拓く2人
さて、武術と医療と銘打たれた本書は、武術研究家である甲野善紀氏と、統合医療を推進する医師である小池弘人氏の対談録である。武術と医療の関係性を語っているのではなく、固定観念に囚われない柔軟な発想で新境地を切り拓く物事の捉え方、考え方を語り合った内容である。
冒頭で、甲野氏が自身で辿り着き磨いた技がスポーツ界になじまないことに疑問を呈す場面がある。その理由を、固定観念からの脱却を恐れ、伝統の縛りから抜け出せない指導者の不明と断じているが、このあたりには違和感を禁じ得ない。もちろんそんな側面があることも否定はしない。しかし、たとえば流れの中で多数対多数で戦うスポーツでは個々の技は活かしにくい上に、うまく工夫して取り入れようとしても単に他によりよい方法があるのかもしれない。スポーツの現場も常によりよくなろうとしているのだ。教条主義を否定しながらも、それゆえに教条主義の香りが漂う部分でもある。
己が信じる確固たる考えを持っている場合、その思いが強ければ強いほどそうなるのかもしれない。それが、わかりやすく整理された論理によって統合医療を説明しようとする小池氏によってごく自然に軌道修正される。
中盤から後半にかけては甲野氏の独創的な身体理論を基にした武術論や、その他の社会情勢に対する押し出しの強い持論と、懐の深い小池氏の「現代医療と相補代替医療の統合された医療体系」である統合医療の考え方が、相乗効果でうまくまとめられていく。対談の妙である。
覚悟が必要
「教条」から「折衷」へ、またこの先理想とする「多元」に流れをつなごうとする現代の統合医療は「患者さん中心の立場から、包括的・全体性を重視しつつ、個々の人にあった治療法ならびにセルフケアを自らが選択する医療」という側面も持つという。自分が鍼灸師であることも無関係ではないだろうが、この統合医療の考え方には共感する部分が多い。なによりこの医療は患者に甘えを許さない厳格なシステムだという見方もできる。自分の生き方、そして死に方に対して己自身の意志で覚悟を持って向き合うことにつながるのだ。これは周りの人たちとの横並びで納得できるものではないだろう。そして誇りを持って生き抜くためには、このことはそもそも避けては通れないことなのだ。
本書に哲学者西田幾多郎の「最も有力たる実在は種々の矛盾を最も能く調和統一したものである」という言葉が引用されている。調和統一できる位置は人によってさまざまだろうが、それぞれの立ち位置を尊重しつつ己のあり方を自在に定める。まさに生き方の問題である。それにしても、さまざまな社会問題に翻弄されてはいるが、このようなことを考えられる余地のある社会に生まれたことはなんと幸運なことか。
己を定める鍛錬
再び私事ながら、干支が4周りするこの年に先駆け、昨春から長男坊を出汁に空手を始めた。幼稚園児や小学生が中心の道場で白帯を締め、汗を流して1年余りが経った。形を覚えながらも形に囚われず、力みすぎる傾向にある我が身をいかにうまく使えるようになれるか探求の日々である。目標はあれこれ技を駆使できるようになることでなく、拳の一撃を、蹴りの一撃を、どれだけ強く速く打ち込めるようになるかである。それでいい。それがいい。こんな些事が、己の立ち位置を定め、日々の暮らしを覚悟あるものにする手助けとなる。
(山根 太治)
出版元:集英社
(掲載日:2013-09-10)
タグ:武術 統合医療
カテゴリ その他
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