スポーツ遺伝子は勝者を決めるか? アスリートの科学
David Epstein 福 典之 川又 政治
もうひとつの「ウサギとカメ」
ウサギとカメという童話がある。どうも納得しかねるこのお話を改変して子どもたちに聞かせたことがある。ウサギに足が遅いことをからかわれたカメは「なら潜水で勝負しようじゃないか」という言葉をぐっと飲み込み、かけっこ勝負を承諾する。このカメは自分が苦手とする領域にあえて挑戦することで、己を変えたいと考えていたのだ。水辺から離れられずに生きていくより、未知の陸地で生き残る存在になるために、エサを確保し、危険から身を守る速さを身につけなければならない。いい機会だとカメは自分なりにトレーニングを積みウサギに挑んだが、スタート直後に自分なりの努力ではどうにもならないことを思い知らされる。「もし君が勝ったら僕は君の言うことをなんだって聞いてあげよう!」そう言い残してウサギはあっという間もなく見えなくなってしまっていた。そもそも命の成り立ちが違う相手に勝負を挑むことは意味がないのか。そんな思いに捉われ、カメは今更ながら愕然とする。
命の成り立ちの設計図である遺伝子の中に、運動能力を決定づけるものは存在するのか。また生まれ持った生理学的資質にトレーニングがどのような影響を与えるのだろうか。本書はそれらの疑問に答えるべく、様々な国や地域、競技、年代を巡って探求した情報を満載している。著者はアメリカのジャーナリストであるDavidEpstein氏。邦題では「スポーツ遺伝子は勝者を決めるか? アスリートの科学」とあるが、原題は「THE SPORTS GENE Inside the Science of Extraordinary Athletic Performance」であり、「勝者」という表現は含まれていない。内容も勝つためというより人間の持つ多様性や可能性を探っているような印象を受ける。大切なのは持って生まれたハードウェアなのか、インストールされたものを学習によってモディファイしたソフトウェアなのか。
カメはしかし思い直す。本当に競うべき相手は、なりたいと思う自分だ。自分を高めたいという欲求は自然に湧きあがってきた感情だ。この勝負を受けたいと思ったことも自分の意志だ。そしてこんな気持ちになることも自分の命の成り立ちの一部だ。絶望的な状況でも逃げ出せばそこで終わりだ。背を向けてたまるもんか。そう考えて全力で走る。一方ウサギはふと立ち止まり、後ろを振り返る。カメは遥か後ろをよたよたと歩いている。やれやれ、こんな勝負に意味はあるのか。ため息をついて、今来た道を戻り始める。「もうやめちまえよ! みっともない! そもそも、お前さんは速く走れるように生まれちゃいないんだ!」カメは息を切らしながら走っているので、言葉を返せない。ちらりとウサギを見た後はまっすぐ前を見据え、ただひたすら走り続ける。
言い切れるほどの単純さか
努力は嘘をつかないという「一万時間の法則」は本当にありえるのか。「大切なのはハードウェアではなくソフトウェアだ」と言い切れるのか。そもそもハードウェアである人体の形質はそんな単純なものなのか。運動能力に関わる遺伝子は一体どれほどの数になるのか。「ウエイトトレーニングにより遅筋線維のおよそ2倍成長する」という速筋線維の割合が高ければハイパワー系の競技で有利になるだろう。しかしその代謝効率をさらに高める遺伝子も存在するようだ。また「筋肉の成長を止める作用に関係するミオスタチンがないと筋肉は急成長する」という。
ローパワー系競技でも、「生まれつき高い最大酸素摂取量に恵まれて」いれば有利になるだろう。しかし、スタートが同じであっても「トレーニングに対する反応速度が高いケース」もあれば「低いケースもある」。標高が高いところでの生活への適応はなにもヘモグロビン量が増えるという形だけではない。「ヘモグロビン量が海抜ゼロ地域に住む人間とほぼ同等の値で酸素飽和度が低いが、血中の一酸化窒素濃度が高いため肺の血管が弛緩」し、「定常的な過呼吸ともいえる状態」で生き残ってきた人々もいる。赤血球数が血液ドーピングと判断されるほど高いにもかかわらず、EPOの分泌量は一般より低いアスリートもいたという。EPO受容体遺伝子の変異が関わっていたのだ。
カメの揺るがない態度に少し胸が痛んだウサギだが、次はあてこすりに少し先で寝たふりをしてみた。カメは走り続けている。甲羅を脱ぐことができれば、もっと長い脚だったら、もっと強い心臓だったら、カメはそんなことも考えてしまう。それでも、カメはなぜだか楽しくなってきていた。周りができないだろうと思っていることに挑戦している自分が滑稽だが誇らしくも思えてきた。こんなことを続けているうちに、もしかしたら何百年か先に脚が異常に速いカメの種族が生まれているかもしれないとまで考えて可笑しくなった。そうなればボクが創始者ということになるのかな。ふと見るとウサギが寝ている。ダメだ、ウサギくん、ボクにとってはこのかけっこは命を育む神聖なものになっているんだ。それを汚すような真似はやめてくれたまえ。追い越しそうになったカメはドンとぶつかってウサギを起こしキッと睨みつけた。ウサギはまた少し胸が痛んだ。
遺伝子の違いで生まれるもの
「腰幅が狭いと走行効率がよい」し、「身体のボリュームに比べて表面積が大きいほど放熱機能がより効果的に働く」。「身長が高いだけでなく、アームスパン対身長比が大きければ、バスケットボールのゴールにより届きやすくなる」。また「下腿の容積と平均的な太さが小さければランニングエコノミーが向上する」し、「へその位置が高い選手(黒人)は走る速さが1.5%向上し、へその位置が低い選手(白人)は泳ぐ速さが1.5%向上する」という報告もある。遺伝的な形態も多様であり、その影響は小さくない。
Y染色体とSRY遺伝子の両方を持っているが、テストステロンの分泌量や感受性によって女子競技への参加が認められる選手もいる。遺伝子の多様性は時に男女の区別をも困難にするのだ。
結局ずいぶん先にゴールしたウサギは、カメが息を切らし、身体を引きずるようにしてやって来るのを待っていた。「キミには負けたよ、カメくん。ボクがキミにしてあげられることはないかい?」疲労困憊だが満たされた表情でカメは答えた、「それならボクの脚が速くなるように一緒にトレーニングしてくれないかい。ボクだって自分を変えたいんだ。お返しにボクはキミに潜水を教えてあげるから。」こうしてふたりの特訓は始まった。おかげでカメはずいぶん速く走れるようになった。ウサギは潜水も少しは覚えたが、カメとの特訓のおかげでその脚の速さはチーターにも負けないほどになった。それでもウサギは二度と自分より脚の遅いものをバカにしたりしなかった。誰かのいいところっていうのは、ひとつの物差しでは測れないことに気づいたからだ。なにより彼らはお互いに尊敬し合える素晴らしい仲間を手に入れたのだ。「運動能力のような複雑な形質は、往々にして数十から数百、場合によっては数千もの遺伝子の相互作用の結果として生まれるものであり、さらに環境要因も考慮に入れなければならない」。「多くの遺伝子は身体の形質に影響を与えるだけで、人に致命的な影響を及ぼすものではない」し、「すべての人間が異なる遺伝子型を保有している。よって、それぞれが最適の成長を遂げるためには、それぞれが異なる環境に身を置かねばならない」のだ。
遺伝子検査をすることでHCM(肥大型心筋症)のリスクを把握し、フィールド上で起こり得る不幸な事故を防ぐことができるかもしれない。頭部を強打した際に脳損傷がより大きくなり、回復にもより多くの時間がかかり、中年期以降に認知症の発症リスクが高くなる原因遺伝子の型が判別できれば、安全面からのスポーツ種目の選択や脳振盪を起こした際の復帰ガイドラインの改正につながるかもしれない。遺伝子情報をこのような形で活かすことは推進されるべきだろう。だが総じて言えば「誰にできるとはいえ、他の誰とも異なる、生物学的かつ心理学的な自己探求」が大多数の人にとってのスポーツであり、人生の味わい深いスパイスとなりえるものだ。全てがわかりすぎるというのも味気を抜いてしまうように思う。
(山根 太治)
出版元:早川書房
(掲載日:2016-09-10)
タグ:遺伝子
カテゴリ スポーツ医科学
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