オープンダイアローグとは何か
斎藤 環
フィンランド西ラップランド、トルニオ市のケロプダス病院で、ユヴァスキュラ大学教授ヤーコ・セイックラさんが中心となって行われているこの治療法。導入した結果、西ラップランド地方では、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮され、投薬を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられていた。フィンランドでは公的な医療サービスとして認められていて、希望すれば無料で治療が受けられるという。
治療のおおまかな流れは次の通り。患者、あるいは患者の家族からオフィスに電話が入る。最初に電話をとった医師、心理士、看護師などがリーダーとなり、メンバーを招集して、24時間以内に患者の自宅やオフィスなどで対話を始める。ミーティングは患者本人だけでなく、家族や親戚、治療チーム全員で行い、いわゆる司会者や議長といった役割は存在しない。特筆すべきは、リフレクティングといって、治療チームのミーティングを患者の許可を得て、患者・患者の家族の前で行うことだ。
オープンダイアローグはおおむね10〜12日連続で行われる。オープンダイアローグの理論には2つのレベルがある。「詩学」と「ミクロポリティクス」という。また、「詩学」には3つの原則があり「不確実性への耐性」「対話主義」「社会ネットワークのポリフォニー」とよばれる。理論的にはグレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論が柱としてあり、思想家ミハイル・バフチンや心理学者レフ・ヴィゴツキーの影響があるという。
不確実性への耐性とはどういう意味かというと、答えを急いで出さずに、あいまいなまま対話を続ける。いわゆる診断はなされない。どんな治療をするか、病状の見通しはどうか、ということも棚上げし、ミーティングを重ねる。対話主義は、バフチンの「言語とコミュニケーションが現実を構成する」という社会構成主義的な考えに基づくという。対話を繰り返す中で、患者の病的体験の言語化・物語化を目指す。社会ネットワークのポリフォニーとは、参加者のあいだで、複数の声が鳴り響くこと。基本的にオープンクエスチョンで、発話を促し、発話に対しては必ず応答する。
1つの答えを探すためではなく、多様な表現を生成することを重視している。ミクロポリティクスは、社会ネットワークを活用しながら患者の社会参加を促す「ニーズ適合型アプローチ」という1980年代にフィンランドで開発された手法から引き継がれていて、治療上の決定には、治療チーム、患者、家族や親戚、あるいは友人など、参加者全員が関わることをいう。
本書でも紹介されているとおり、北海道の「べてるの家」では同じような取り組みがなされている。自分の症状や病気についてオリジナルな名前をつけて、研究・発表する「当事者研究」や、三度の飯よりミーティングというスローガン、あるいは、医師のインタビューにある「べてるは日本語学校」という言葉からも、オープンダイアローグとの類似点が垣間見える。言葉にすること、あるいはストーリーとして、自分が受け止められるようにすることに治療の主眼は置かれている。
想像を絶する体験であっても、言語化・物語化されることで、当事者は楽になる。ただ、それは自然に獲得される副産物であり、オープンダイアローグの目的はあくまで対話だ。対話が対話を自己生成していく様子を、生物学でいうオートポイエーシスと表現したり、著者・訳者はジャズの即興演奏にもなぞらえる。芸術家や文学者には精神疾患を患ったひとが多いように思う。それらの創作物は、言語化・物語化に限りなく近いのかもしれない。モノローグ的だけれど描かず(書かず)にはいられない、という衝動には、自己治癒への試み、という面があったのかもしれない、と思った。
(塩﨑 由規)
出版元:医学書院
(掲載日:2022-08-29)
タグ:オープンダイアローグ
カテゴリ 医学
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NHKテキスト 100分de名著 中井久夫スペシャル
斎藤 環
著者曰く、中井久夫の功績のひとつは、統合失調症の状態を過程と読み替え、回復の希望を見出したことにある。その「希望」は当時、閉鎖病棟の劣悪な治療環境に絶望しかけていた著者にも「処方」された、ともいう。
中井久夫が言ったことを復習すると、S親和者、心の生ぶ毛、普遍症候群に対する文化依存症候群や個人症候群、標準化志向型・近代医学型精神医学SMOPなどが特に印象に残っている。
S親和者は統合失調症的気質を持つひとのことをいう。その微かな兆候を読み取り、感じ取る能力は、時代や状況が異なれば、有益な能力であるという仮説を、中井久夫は提示した。そして誰もがなりうる可能性があり、まるで人類にとっての税のようなものだという。
この本で読むかぎりでは、当時、統合失調症(分裂病)は不可逆的に進行し心理的に荒廃してしまう、治らない病気としてとらえられていたようだ。そのようなスティグマを取り除くことに、中井久夫は尽力した。
中井久夫は、普遍や標準化などの医学モデルに異を唱える。精神科医にはどこか“まっとう”でない医療であるという意識があり、だからこそ、そういった医学的な診断法や体系化された方法論に固執する向きがあるという。しかし、それらの考え方は、正常に戻す、あるいは矯正する、という治療方針と結びつきやすいのではないだろうか。それは暴力的に映ることさえある。心の生ぶ毛を守り育て、やわらかく治す、医師に治せる患者は少ない、しかし看護できない患者はいない、いずれも中井久夫の箴言であるが、改めて治療とはなにか、と考えさせられる。
フロイトは、医者は患者の弁護士である、患者以外の何ものをも弁護してはならない、と言った。徹底的に寄り添うことで、つまり、そのひとの熟知者であるからこそできる治療がある。それが世界の様々な文化とコミュニティのなかで行われていることだ、と中井久夫はいう。著者曰く、中井久夫は一貫して自身の考え方を理論化し体系化することを嫌った。それが権力と結びつくことを懸念したからだ。そのかわり多くの断片的な箴言を残した。体系はしばしば視野を狭くするが、すぐれた箴言には発見的な作用がある。それを著者は、体系知にたいする箴言知、と表現する。
合気道の高位有段者でもある施術家の先生と、身体の使い方についてよく話す。しかしいつも話題になるのは、こうだ、とした瞬間に、いやそうではないという、禅問答のような事態になってしまうことのむつかしさだ。そのコツやカンについて、その先生によれば合気道という型を共有しているひとたちの間でも、感覚は全然違うのだという。体系化した途端に間違えること、言葉にした瞬間ズレていくこと。それってどうすればいいんだろう、といつも思う。
(塩﨑 由規)
出版元:NHK出版
(掲載日:2023-08-03)
タグ:精神医学
カテゴリ メンタル
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