なぜ人は走るのか ランニングの人類史
Thor Gotaas 楡井 浩一
「ランニングの人類史」というサブタイトルの通り、「走り」の歴史が詰まった本です。古代はまさに命がけで走っていました。地球環境が変わり森の多くがサバンナになった時代、サバンナを走り獲物を追いかけたことが、活動領域という点において森にとどまった類人猿との決定的な分かれ目になったそうです。人類の繁栄に少なからず「走り」が関わっていたようです。
時代は変わり、交通手段がなかった頃、伝令という重要な役割が「走り」に課せられ、そこで命を落とした者を記念してレースという競技の起源だそうですが、その残酷さ過酷さゆえに人々の熱狂を生み、今に至るまで人気競技の座を得ていることには考えさせられました。
レースになり勝敗がかかる以上、人々は勝つためにあらゆる手段を駆使しました。お金も絡んでくるし、ドーピングの問題も発生するし、靴や時計などの関係用具の発達など、ランニングの光の部分と影の部分の双方が絡み合って様々な歴史を刻んできたようです。走りの歴史は人類の歴史とぴったり寄り添っているようにも見えます。
日本で人気の駅伝という競技は個人主義に走らず団体の和を重んじる日本人の国民性ゆえに定着したようです。そういう意味では「走り」には文化も反映されるようです。
歴代の有名ランナーのエピソードから一般人のジョギングの歴史まで、事細かに紹介されています。まさに「走りの百科事典」といえる一冊です。
(辻田 浩志)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2015-07-22)
タグ:ランニング 歴史
カテゴリ その他
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なぜ人は走るのか ランニングの人類史
トル・ゴタス 楡井 浩一
走る目的の変遷
原題(Running: A Global History)の通り、古今東西のランニングの歴史である。人々が何を得るために走ってきたのかにフォーカスし、その変遷を探っている力作。
ところで皆さんには、実生活において、足が速くて役に立ったという経験があるだろうか。私にはある。高校生の頃のことである。せっかく前夜に終わらせておいた宿題を家に忘れてきた。当時私は家から片道徒歩10分の高校に通っていたのだが、授業の休み時間(10分間)の間に家まで走って取りに行き、次の授業に遅刻することなく、事なきを得たのだ。私のマヌケな事例はさておき、古来より人々が走ってきた目的は何だろうか。金と名誉。この2つは今も昔も変わらない。
古代から19世紀半ば頃までは、伝令走者が活躍した時代である。名誉ある職で、報酬もよい。貴族は駿馬や強靭な走者を抱えることを、実際上もステータスとしても重視した。走者が主人の名にかけて競争する見世物のようなレースも開催されて、優勝者には大変な名誉と賞金が与えられていたようだ。
その一方で、下層階級の間で様々な賭けレースも盛んに行われていた。勝者には高額な賞金が与えられ、時には走者が自分に賭けることもあった。それに伴い不正やいかさま・八百長なども横行していた。わざと負けたり、調子の悪いふりをしたりしてハンディキャップや配当を操作したりもした。そういった下層階級の者たちが金を賭けて騙し騙されしながら走る姿に対抗した、上流階級の「あんな風にはしたくない」という気持ち、言い換えれば差別意識が生んだ倫理観が、19世紀後半から台頭するアマチュアリズムである。
上流階級の紳士とは、労働をせず資産の利子や土地収入によって生活していた人たちのことであり、身につけた知識や技能を生活のよすがとするのは紳士失格を意味する。彼らにとっては、金を賭けたり賞金の授受などは唾棄すべきことである。紳士たちは、腐敗や不正のないスポーツ、「競技のための競技」を目指した。そういう背景から生まれたアマチュアリズムは、下層階級を近代スポーツから排除していった。
本当のプロランナーとは
現在ではアマチュアリズムというのは死語に近い。報酬の多寡や地位にかかわらず、卓越した能力を持った者には「プロフェッショナル」として尊敬の眼差しを注がれ、「アマチュア」は大したことないとか低レベルの者といった、見下した表現に使われている。
現代ではすっかり立場が逆転してしまった感のある「プロ」と「アマ」であるが、走ることで報酬を得てそれで生活するという、本当の意味でのプロランナーとはどういうものだろうか。私が本書の中で一番印象に残った一節を引用して紹介したい。「ヨーロッパから見れば、アフリカはランナーの国のように見えるかもしれない。しかし、アフリカでジョギングが流行ったことはないし、車を持っていない住民は走ることより歩くことを好む。ヘンリー・ロノの子どもたちは、ケニアの理想的なトレーニング場の近くに住んでいるにもかかわらず、走ってもいないし、体を鍛えることすらしていない。ハイレ・ゲブラセラシェが走ったのは、家計に余裕を持たせて、自分の子どもたちが父親のように走らなくてすむようにするためだった」
結局、見世物レースが形を変え、今も続いていると感じるのは私だけだろうか。
いつかやめる日はくる
私の指導するクラブの子どもたちはなぜ走っているのだろう。クラブの練習日には宿題を超特急で終わらせ、友達とも遊ばずにせっせと通ってくる。まさか、親が将来儲かることを期待して、というわけではあるまい。自分は走ることが得意だから、それを磨いて活躍したいと思っているのかもしれない。
しかしいずれ、その子たちにも走ることをやめる日がくるだろう。楽しみとして走り続けることはあっても、競技者としていつまでも走ることはできない。そうなっても、クラブで速く走るために練習を続けた日々が、子どもたちにとって、よい思い出となってくれればそれでいいし、その経験が他のことにも参考になってくれたら、なおいいと思う。生活のために走るということの過酷さを思うと、金にもならないことに情熱を傾けられる今の境遇に感謝しなければならない。
(尾原 陽介)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2013-04-10)
タグ:人類史 ランニング
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