水中の哲学者たち
永井 玲衣
「わたしの問い」からはじまる「手のひらサイズの哲学」、それは「大哲学」みたいな大それたものではなく、「なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた頭で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学」だ(5-6頁)。優しく、美しく、柔らかく、そして曖昧でとても魅力的な文章の数々。それでいて、思わずハッとさせられる文章にも出会う。私はこの本を読み始めると共に、すぐに永井さんの世界に引き込まれていた。
とにかく、まずは一旦落ち着いて、本の表紙でも眺めてみよう。白と水色を基調とした美しい装丁の中にある「水中の哲学者」という言葉が目につく。私はふと、ヴィトゲンシュタインの名を思い浮かべた。この20世紀を代表する偉大な哲学者は、「水泳では人間のからだは自然に水面に浮かび上がる傾向がある。人間は水中にもぐろうと努力せねばならない。哲学も同じようなものだ」とよく言っていたようだ(ノーマン・マルコム)。このエピソードに「たとえ問いに打ちひしがれても、それでも問いとともに生きつづけることを、私は哲学と呼びたい」という永井さんの言葉が共鳴する(116頁)。たとえ水面に浮かび上がろうとも、それでも潜り続ける努力を止めたくない。それは、ときに苦しいかもしれない。しかし、それでもなお…。
「宇宙のバランス」を気にかけて「いや、でもさ」とばかり言ってしまい友人から怒られ、逡巡した挙句「ごめん、すぐアウフヘーベンしたくなっちゃって」と「意味不明な言い訳を」してしまう永井さんを、私はとても素敵だと思った(223頁)。考え続けることはときに苦しいが、どうしても考え続けてしまう人というのが世の中には一定数いる。そういう人は「哲学病」を患っているなどと言われたりもするが、その人たちが病に侵されているのではなく、世界の方が、あるいは生の方がどうかしてるのではないか? 気がついたときには既に世界があり、ほかでもないこの私が生まれてしまっている。ほんの少し何かが違えば、広大な宇宙の中の一つの惑星である「地球」は存在していなかったかもしれないし、私の先祖の誰かが1人でも早く死んでしまっていたら、私は存在していなかったかもしれない。いや、もっと脆かったであろう現在の存立、あのとき、あの先祖が、あの場所に行かず、あの人に出会っていなかったら、という無数の可能性、途方もない偶然性、そして、ここで「あの」と呼ばれている何かの存在それ自体の脆さ。明日、突然世界中のテレビがハイジャックされて「明日で地球サービスは終了します。よって、地球上に存在しているあらゆる存在は12時間後に消滅します」なんて放送が、宇宙人によって流されたっておかしくない。映画『トゥルーマン・ショー』のように、私を取り巻く全ては作り物かもしれない。全くもってめちゃくちゃだ。でも、めちゃくちゃなことの想定よりも、さらにめちゃくちゃなのがこの世界、この生なのかもしれない。それについてどうにか考え、無理しながらも言葉にしてみる。そうしたら、どうしても言葉は曖昧で、意味不明なものになってしまうかもしれない。それでも、なんとか語ってみる「手のひらサイズの哲学」。全てのことが論理的一貫性を持って語れるのか。世の中は、そういう論理、いわば「健やかな論理」を求めている。人類は、それに手が届くと信じてもいる。でも、もし世界そのものが病んでいるのだとしたら? そしたら、それを語れるのは「病んだ論理」の方なのでは? なんて、そんなことも考えてしまう始末。
私は本書の中で、永井さんの祈りに触れた。「わたしは祈る。どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。それらが見せてくれる世界は、甘い甘い夢だ。いつか、その甘さはわたしたちを息苦しい湿度の中で窒息させる」(125頁)。皆が同じ方向へと邁進する社会。コスパ、タイパが志向され、無駄なものは排除されていく。ついには、その魔の手は人間という存在にも忍び寄る。その一方で、加速していく社会の中で、どうしてもその速度に追いつけない人たちというのもいる。皆がせかせかと働き、何か目的を持って行動しているような世の中で、そういう人たちは一々何かに引っかかっては、波に乗ることができないでいる。本書は、そういう人たちに寄り添う優しさを持った本でもある。そういう人たちと共に、世界をゆっくりと眺めまわしてくれる。こんなにもめちゃくちゃな世界を一緒に鑑賞して、「ヤバすぎない?」と嘆き合ってくれる。そして、共に頭を悩ませてくれる。
「衝撃的な他者性の告知こそが、哲学対話の醍醐味なんだと信じている」(241頁)。その「衝撃的な他者性の告知」によって、私は破壊される。新たな問いを抱えざるをえなくなる。しかし、それは決して不幸なことではない。むしろ、それは他者との出会いの証左であり、哲学であると私は言いたい。かつてメルロ=ポンティが言ったように、「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」のならば、まさに「衝撃的な他者性の告知」は哲学のはじめにこそ置かれるべきものなのかもしれない。
本書の文字通り最後には、「このめちゃくちゃで美しい世界の中で、考えつづけるために、どうか、考えつづけましょう」と書かれている(265頁)。これが本書が最後に語った言葉である。これを読んだとき、わたしは「なんてめちゃくちゃな文章なんだ」と思ったと同時に、「なんてこの本らしく、素晴らしい文章なんだ」とも思ったのであった。考え続けるためには、問いを持ち続けなければならない。安住していても、新たな問いとは出会えない。対話へ、他者のもとへ、勇気を持って一歩を踏み出そう。ポケットに本を突っ込んで、街中に出かけよう。人類初の月面着陸を成し遂げた、あのアームストロング船長が言っていた言葉が頭に響く。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」。そんな励ましの声が、この本からも聞こえてくる。
ノーマン・マルコム, 板坂元.(1998).『ウィトゲンシュタイ 天才哲学者の思い出』, 平凡社, 70頁.
(平井 優作)
出版元:晶文社
(掲載日:2024-06-15)
タグ:哲学
カテゴリ その他
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