身体と境界の人類学
浮ヶ谷 幸代
“正常範囲”の支配
科学的トレーニングが浸透している現在、様々な方法によって得られた身体・体力に関する測定数値を私たちは頼りにしている。しかしながら測定値がある一定の境界を超えた(届かなかった)とき、それを単純に「おかしなこと」と捉えてしまうと「<いまここ>に生きる身体」は断片化してしまい、測定した数値に支配されてしまうことになる。ところが、私たちは自身の身体を生物学的・生理学的に数値化されたモノサシだけで把握するように小さいころから刷り込まれてはいないだろうか。
たとえば幼少時から行われる体力測定や、大人になってからのメタボ検診などの結果を受けとめ、さまざまな対応をすることはある意味で正しい。しかし測定値がある範囲(境界)から逸脱していたとき、“おかしなこと”“劣ること”といった負のイメージを当てはめることがある。その時点で人は“数値”という権力に支配されてしまうことになる。本来、測定値とはすべて連続性を持つものであって、“境界”は後から人工的な意義づけをして設定されたものである。したがって、数値は“正常範囲”にあることが正しくそれから外れることは忌み嫌うべきことであるとするような考え方を持ったとき、それはその値を示した身体の主体となる人の行動ばかりか人格をさえ否定しかねない可能性を伴うことになってしまうのである。
手段としての数値
本書の著者、浮ヶ谷幸代は、医療人類学を専門とする文化人類学者である。本書では身体を、「世界的身体」「社会的身体」「政治的身体」といった切り口から眺め、「臓器移植、精神障害、糖尿病における身体観や身体技法」などについて「さまざまなトピックスを通して、人、モノ、状態、観念における境界領域の連続性とその特異性について考察」されたものである。
本欄では「身体感覚を研ぎ澄ます」と題された第5章を主に紹介したい。「生活習慣病」なかでも「糖尿病」に焦点をあてたものだ。ほとんどの生活習慣病は、とくにその初期には自覚症状がない。ではなぜ自分が糖尿病であるのかを知るのかというと、それは健康診断による検査数値からである。「とりわけ、中高年世代にとって、自分の身体や健康に関する情報のほとんどは、健康診断によって露わにされる臓器の状態や機能にかかわる検査数値」である。現代は「あたかも科学的な数値が人間の身体のすべてを物語る、とでもいいたげな健診社会」であると浮ヶ谷はいう。
しかし「科学的数値は、それが普遍性、客観性、論理性を旨とする科学的思考の根拠とされているため、生理的身体を表象するという意味において非人格的」であるとばかりはいえない側面も持っている。「人間が意味の網の目(=文化)に生きる動物」である限り、その数値は無味乾燥なもので終わることはなく「医療での診断や治療のための指標となるだけでなく、日常生活においてさまざまな意味を生み出している」のである。糖尿病の人にとって「科学的数値は身体に働きかける手段となり、自分の身体とどう向き合うかという身体技法を編み出す契機となる」のだ。すなわち「血糖値を手がかりに自分の身体に働きかけることを通して、自己の身体と他者の存在への気づき、そしてそれを契機とする周囲の人との関係の調整を生み出し「『<いまここ>を生きる身体』を知覚させる。と同時に、自分の身体に気配りをすることが、結果的に他者の存在に配慮すること」になるのである。
体育という相互交渉の場で
さて、われわれの分野に目を転じてみると、これと同じようなことが選手とコーチの間に生じていることに思い当たる。何らかの体力測定値をもとに選手は自己の身体感覚との擦り合わせを図ろうとし、コーチは測定値と選手の動きやその他にも選手の身体から発せられる多くの信号を手がかりとして、相互交渉の場が生じているのである。
一方で、子どもの体力や運動能力は高いのがよいというのに異論はないが、だからといって測定値の低い(正常範囲=境界を逸脱する)子どもに対する配慮は忘れたくないものである。子どもの体力が正常範囲に入るよう躍起になって運動させることが私たちの仕事ではない。体力が低いのは“劣っている”こと“悪い”ことだというレッテルを子どもに貼った時点で、その大人は“数値”という権力に支配されてしまうことになるからだ。それよりも、身体を通して自己を育み、周りの人との関係を育む、“体で育む”ことこそがわれわれのなすべきことなのである。
“体を育む”ことに気を取られ、その子どもの身体(人格)を否定することなど絶対にあってはならないのである。
(板井 美浩)
出版元:春風社
(掲載日:2011-04-10)
タグ:身体論
カテゴリ スポーツ社会学
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