現代スポーツ社会学序説
海老原 修
歌は世につれ世は歌につれと言いますが、歌だけでなく言葉も世につれ人につれ変わっていいと思うわけです。なぜ、こんな奥歯にものが挟まったような言い方から始めるのかというと、本章のタイトルが小生には少々合点がいかないからであります。
たとえば、本書には力道山が出てきます。力道山と言えば日本のプロレスの生みの親であります。この力道山が、敗戦に打ちひしがれた日本国民に与えたインパクトは計り知れないということは周知の事実ですが、実は、本書では「GHQマーカっと少将、法務局フランクリン・スコリノフといったキーパーソン、彼らが(力道山のような)日本人選手を探していたことなどを考え併せるとき、プロレスが政治的な判断を伴なう文化統制であったという仮説が頭を離れない」という米国による恣意的なお膳立ての上で力道山は暴れ、わが日本国民もまんまとその意図にはまった可能性が強いことを示唆しています。
こうなると、もうスポーツが社会に与えた影響というような可愛らしいお話では済まない訳で、いわばスポーツを手段とした国民の思想コントロール、あるいは戦勝国による敗戦国の洗脳であると思うわけであります。こんな過激な仮説を本書は随所に配置しながら、タイトルは「現代スポーツ社会学序説」という、まるで狼が赤頭巾ちゃんの洋服を着ておばあさんの家のドアを叩いているような違和感、矛盾感を持たざるを得ないわけです。
サブタイトルに「日本的文脈とイメージの逸脱者中田英寿」と付けた論文もあります。この中で著者は「学校体育や企業スポーツを基盤とする日本のスポーツは、教育や福利厚生、あるいはそれぞれの組織共同体の維持といった文脈が付与されている」とし「ゲームより練習が重視され、競争よりも健康に価値観がおかれるように、スポーツの“社会的文脈”よりも“身体運動の物理的形式”に(スポーツの)イメージが偏る傾向」を日本の今までのスポーツに対して指摘したうえで、プロサッカー選手中田英寿は“日本的文脈からの逸脱者”であるとしています。これはこれで非常に興味深い結論なのですが、中田英寿が現代の若者に対して非常なカリスマ性を持っているという著者の指摘の延長線上には、スポーツ選手に限らず、日本的文脈から逸脱する若者が続々とこれから生まれるという推論とこれからの日本人気質の変化についても視野に入れた議論があっていいのではないかと思うのです。つまり、この中田英寿の日本逸脱ぶりを検証するという作業は、きわめて近い将来の若者論、あるいは日本人論へと話が思い切って拡散していいと思うわけであります。それだけの筆力を十分にこの筆者は備えていると見たとき、これほどまでに広がりを予感させる議論の萌芽を用意しておきながら、本書が“スポーツ社会学”という枠組みの中だけで議論を終える窮屈さや、あるいはタイトルに興味を持たない人々にはこれらの先鋭的低減が目に届かない無念さを小生は感じてしまうのであります。
多分、これはもう現代社会においてすでにスポーツと社会を明確に分離できないことを意味している証拠だと思います。元来、“スポーツ社会学”なる言葉は社会におけるスポーツという分離が可能な時代の造語にすぎません。スポーツが、まだまだ市民権を得ていなかった時代の一般向け造語だと思います。
歌は世につれ、世は歌につれ。専門家の皆さん、“スポーツ社会学”から“逸脱”する気はありませんか?
(久米 秀作)
出版元:杏林書院
(掲載日:2003-05-10)
タグ:社会学
カテゴリ スポーツ社会学
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