リハビリの夜
熊谷 晋一郎
厳しいリハビリ
体育とは“体で育む”ことである(本欄10月号)。あえて“何を”という目的をつけない。そうすることで、体育の可能性がより大きく広がり、生命の根源に近づくことができるような気がする。本書を読んで、その思いがいっそう強くなった。
著者、熊谷晋一郎は「新生児仮死の後遺症で、脳性まひに。以後、車いす生活となる。幼児期から中学生くらいまでのあいだ、毎日リハビリに明け暮れ」、東京大学医学部卒業後いくつかの病院勤務を経て、現在は東京大学先端科学技術研究センター特任講師を務める小児科医である。生まれるとき「胎児と母体をつなぐ胎盤に異常があったせいで、出産時に酸欠になり、脳の中でも『随意的な運動』をつかさどる部分がダメージ」を受けたため『イメージに沿った運動を繰り出すことができない状態』となった。そのため「健常な動き」ができるよう、厳しいリハビリを受けることになったのである。
「互いの動きをほどきつつ拾い合う」
人の身体は一般に「これからしようとする運動にふさわしい緊張を加え、制御し続け」るため「たくさんの筋肉がいっせいに協調的な動きをすること」ができる『身体内協応構造』を持っている。しかし彼の場合、「『過剰な身体内協応構造』を持っている」ため、「両足は内股になって、ひざは曲がり、かかとが浮いている。両腕も同じように回内して、ひじ、手首は曲がっている」姿勢になる。「ある部位を動かそうとすると、他の部位も一緒に動いてしまう」ため、パソコンを打つにも「全身全霊で」臨まなければならない。この緊張でこわばった身体を「ほどく」ためにもリハビリは必要なのである。
介助者「トレイナー」と彼「トレイニー」の息が合えば、二人の間にあった「壁のようなものは徐々に薄らいでいき、二つの身体がなじみはじめ」「互いの動きをほどきつつ拾い合う関係」が築かれる。しかしトレイナーが「健常な動き」を彼に与えようとし、さらに彼がトレイナーの思うような動きになっていなかった場合、二人の関係は一変する。「『もっと腰を起こして』。私は自信のないまま腰を起こそうと動かしてみるのだが、すぐに、『違う!ここだよ、ここ!』」と否定され、「命令に従おうともがけばもがくほど」「体はばらばらに散らばって」「私の体は私のものではなくなってしまった」。ここにおいて二人の間柄は「加害/被害関係」となり彼の身体はかたくなに閉じたままになってしまうのである。
始めのうちは“からだで育む”関係ができていたのに、トレイナーが「健常な動き」にあてはめようと“体を育もう”としたことが失敗の原因と思われる。この部分、トレイナーとトレイニーの関係を、教師と生徒・学生、監督・コーチと選手、親と子、これらに置き換えて読んでしまい背筋が凍った。
知力に脱帽
身体感覚のパースペクティブ(遠近法・透視図法)を自在に操り、身体という宇宙を大旅行した気分にさせてくれるところが本書の醍醐味といえる。自身の体を客体化して観察し、または観察した他者の運動を自身の内部の感覚として仮想し、それを言葉におこして他者の身体を借りて再現し、感覚と運動の摺り合わせをする作業から学んだ(感じた)ことをさらに文章化する知力には、ただただ脱帽するしかない。バドミントンなどでメッタメタにやられた後の、快感すら感じるようなあの敗北感にも似ている。
運動やスポーツを行うのは“気持ちいいから”という動機がまずはじめにあると思う。この、“快”、“快感”という身体感覚をキーワードに“体で育む”ということを考えてみると、激しい運動やスポーツでなくとも、伸び(ストレッチ)をする、手を握り合う、身体の一部を触れ合う、場合によっては優しい言葉に触れるだけでも“気持ち良い”を体感することは可能で、それらの身体感覚を通して互いの“体で何かを育む”ことができる。“何か”とは、愛かもしれないし、信頼関係かもしれない。これこそが“体育”をすること、であると思うのだ。
(板井 美浩)
出版元:医学書院
(掲載日:2010-12-10)
タグ:リハビリテーション
カテゴリ 身体
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