リベラルとは何か
田中 拓道
保守とリベラルの対立に関する分断などが様々なメディアを介して煽られていたり、ソーシャルメディアにおけるエコーチェンバーやフィルターバブルが問題になっている現代社会において、改めて「リベラルとは何か?」と問い直すのは極めて重要な作業だと言えるだろう。ともすれば、本書でも指摘されているように「『リベラル』という言葉を語ること自体、どこか偽善的で、時代遅れであるようにすら感じる人もいるだろう」(p.iii) 。しかし、私としては、本当にそのような態度でいいのだろうか、という疑念が拭えない。私たちは社会の中を生きているのであるし、社会について考えることは自らについて考えることでもあるはずだ。本書は、そのような思考に同伴してくれるコンパクトな案内図として、17世紀における自由主義の起源から現代日本のリベラルまでを通覧させてくれる。
本書の目的は「『リベラル』と呼ばれる政治的思想と立場がどのような可能性を持つのかを、歴史、理念、政策の観点から検討すること」であるが、そのために2つの方法が採用されている(p.i) 。ひとつは「歴史的な文脈の中で、リベラルと呼ばれる考え方が登場し、何度もの刷新を遂げてきた経緯を明らかにすること」、もうひとつは「リベラルをできるだけ具体的な政策と結びつけて理解すること」である(p.iv-v)。これらを起点に描かれる本書の内容はまとまっており、大まかな歴史の流れを把握しやすいようになっている。しかし、この書評では本書の内容を要約することはしない。ここでは、本書を読むにあたっての一つの関心を提示することで、読者の興味を喚起することを目指しつつ、評することにさせていただこう。
私が本書に関心を持った理由を提示することは、スポーツ関係者や医療関係者にいくつかの興味を喚起することに役立つかもしれない。そのような関心のひとつが、本書で扱われている思想的背景が、人間の「統治」というものに、どのような影響を与えてきたのかを考察するということである。
19世紀イギリスにおける産業化による負の帰結をいかにして社会問題として解決するのかという問いと、そのような反省の少し前に確立されていたエドウィン・チャドウィックを先頭に進められた公衆衛生政策の問題、あるいはそのような公衆衛生政策運動と功利主義哲学の関係や、フランスの哲学者ミシェル・フーコーがリオデジャネイロで行った有名な社会医学についての講演の冒頭で取り上げた「べヴァリッジ計画」の思想的問題(フーコー, 1976: 2006)、エリオット・フリードソンが医療社会学の古典的名著『医療と専門家支配』の序章で記している「自然科学的な疾病概念を社会的逸脱行動へと一層拡大して適応しているのは、自由主義的イデオロギーをもったブルジョアジーである」(フリードソン, 1970=1992: 7) という指摘について考察することなど、実に重要な興味深い問題が多数あるが、それらについて考えるためには政治哲学に関する思想史的知識は外せない部分だろう。人々が社会についてどのように考えてきたのかという歴史は、人々が人間をどのように理解していたのかということと切り離すことができない。そのような歴史の中で生じた諸事象の帰結と過程の中を、現代に生きる私たちも歩んでいる。そのため、これらの歴史について知ること、社会について知ることは、私たち自身について知ることでもあると言えるだろうし、私が先ほどから述べているのは、このような意味においての重要性なのである。私たちスポーツ関係者や医療関係者の実践が、どのような認識の上に成り立っているのかを理解することは、現在の在り方を考える一つの契機となりうるだろう。
たとえば、本書の第1章で述べられているが、自由主義的な思想の起源には医師であり、ブルジョワジーでもあったイギリスの経験論哲学者ジョン・ロックの哲学が重要な寄与をしていた。彼は自己主権論を唱えたのであるが、それは封権的な支配勢力と格闘する革命派のブルジョワジーの見解としてであり、個人の自由や自律を推進する彼の思想は、自分自身を管理する経済的余裕などを有するブルジョワジーにとっては望ましい思想であったが、そうでない人々にまでそれを強いる自己責任論を帰結してしまうという限界を内包していた(日野, 1986: 43-53)。その後、様々な福祉形態の検討がなされてきたが、未だに自己責任論は根深くわれわれの中に浸透している。私たちは、それをどのように把握し、対処すればよいのであろうか?
どこまで個人の自由や自律を保障し、どれだけの介入を国家に許すか、そして、その介入形態はどのようなものにするかなど、これらの問題は依然として切迫した問題である。「1970年代以降、リベラルはさまざまな挑戦を受け、今なお刷新の途上にある」ということを顧みれば、これらはまだ生きた問題であるし、私たちそれぞれが取り組んでいかねばならないのである (p.v) 。
リベラルについて問うことは、単に政治経済的な問題を狭小的に考えることではなく、私たちの諸実践に考えを巡らせることでもある。それらは、市場経済の内部における問題だけではなく、家庭内におけるケア労働の問題や医療実践に関わる私たちの認識を広く問うことでもあるのだ。「政治における思想とは、それ自体、人びとを動かす一つの『力』である」 (p.v) 。そのように考えれば、本書が提示する問題は実に多くの人に開かれた問題であることが理解できるだろう。
参考文献(本文内での掲載順)
ミシェル・フーコー, 小倉考誠. (2006). 「医学の危機あるいは反医学の危機?」, 『フーコー・コレクション4 権力・監禁』, 筑摩書房, pp. 270-300. (Michel Foucault. (1976). Crise de la médecine ou crise de l'antimédecine?, Revista centroamericana de Ciencias de la Salud, nº 3, pp. 197-209.)
エリオット・フリードソン. (1992). 『医療と専門家支配』, 恒星社厚生閣. (Eliot Freidson. (1970). "Professional Dominance: The Social Structure of Medical Care", Atherton Press.)
日野秀逸. (1986). 『健康と医療の思想』, 労働旬報社.
(平井 優作)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2024-04-18)
タグ:社会 リベラル
カテゴリ その他
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