動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか
福岡 伸一
体力があるのはよいこと?
私の大学では、新入生を対象に体力測定を行うことを毎年の恒例としている。全国平均と比較した結果表を渡した後に感想を聞くと、判で押したような内容ばかりで笑ってしまうことがある。たとえば“浪人したけど体力あんまり落ちていなくてホッとしました(笑)”、“受験勉強で体力が落ちて悲しい。もうトシです(泣)”といった具合だ。
体力があるのは“よいこと”、ないのは“劣っている”こと“悪い”ことだというように、小さい頃から刷り込まれてきた結果このような感想を漏らすのではないか。極端な言い方をすると、体育の授業はただ単に身体が丈夫になるためにあるとか、自分はスポーツが得意だから優れているのだという解釈をしている部分もあるように思う。
“体育”とは、“体を育む”でもよいが、“体で育む”と読みたいものだと私は考えている。確かに体力があったり、運動能力に優れていることは日常生活を送る上で便利かもしれない。しかし、運動することに限らず、何かに触れたり、互いに触れ合ったりという身体感覚や体性感覚でもって感動し、身体を通して命を見つめ育む、そういう行為こそが“体育”であってほしいと願っている。 いずれ医師となったとき彼らが向かい合うのは、何らかの理由により心身に不具合を感じている患者や老人である。そういう人たちを相手に、正義の味方(=強者)の理論に陥って高飛車な診療態度をとったりすることなく、同じ目線で、共感できる姿勢を今のうちに身につけておいてほしいのだ。
生命とは動的な平衡状態
さて、本書の著者・福岡伸一は、分子生物学を専門とする生物学者で、かのベストセラー『生物と無生物のあいだ』の著者でもある。一貫するテーマは、さまざまな角度から「生命現象」つまり「生きていること」を見つめ、命について考察を深めているところにある。
表題の「動的平衡」とは「生命、自然、環境―そこで生起する、すべての現象の核心を解くキーワード」である。「生きている」ことすなわち「生命とは」「動的な平衡状態に」あり、そして「それは可変的でサスティナブルを特徴とする」システムなのである。「サスティナブル」なものは「一輪車に乗ってバランスを保つときのように、むしろ小刻みに動いているからこそ、平衡を維持できる」のであって「動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている」からこそ「環境の変化に対応でき、また自分の傷を癒すことができる」。決して「何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではない」のである。そこには身体の大小、あるいは強者と弱者などといった区別は一切ないのである。
粘土に触れた感動
閑話休題。1年生を対象に“芸術と医療”という講義を担当してくださっている林香君先生(はやしかく:陶芸家、文星芸術大学教授)にうかがった話。
10年ほど前、重度の知的障害を持った子どもたちの施設で陶芸体験をしたところ、一人の少女がロクロに乗った粘土に手を触れたとたん、グッと手と粘土を見つめ幸せそうな顔になり嬉々として粘土をこねていたという場面を経験したことがあるのだそうだ。視覚と触覚が一致して動作に現れるということは、この少女のような場合には稀なことらしく、粘土に手を触れることで彼女の体に大きな感動が走ったからだろうと施設の先生が大変喜んでくれたという。林先生も驚きを隠せず、この経験がもととなって粘土が持つ未知の力を医療の場に展開する試みを続けているとのことである。
ひるがえって、私たち体育を生業とする者はどうだろう。歩けなくなったらオレはもう終わりだ、なんて思っていないだろうか。“Sports for All”ということを頭ではわかっていても、“この人たちにはあてはまらない”と、どこかに線を引いてはいないだろうか。飛んだり跳ねたり走ったり、汗をかくような激しさはなくとも、そこに“生きている”事実があれば、十分に“体育”は成立する。このようなことを原点に据えたほうが“体育”の可能性がさらに広がるように思えるのだがいかがだろう?
(板井 美浩)
出版元:木楽舎
(掲載日:2010-08-10)
タグ:研究
カテゴリ 生命科学
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