リスク化される身体 現代医学と統治のテクノロジー
美馬達哉
リスクに対して持つべき思想
たとえばある高校生女子バスケットボール部の、非接触型ACL損傷の予防プログラムを作成すると仮定する。まずすべきことは、そのリスクの把握である。リスクとは「未だに発生していない危害の予期という意味を持つ」ため、すでに同傷害を負った選手に該当する因子はもちろん「未来に予測される危害としてのリスク」も対象に考えなければならない。
ここでカッティング動作やジャンプの着地動作などにおける、いわゆるKnee in & Toe outというダイナミックアライメントがACLに大きなストレスをかけることが原因だと唱えてもあまり意味がない。膝関節伸筋や股関節外旋外転筋などを中心とした筋力の問題、主働筋、協働筋と拮抗筋、また体幹をはじめ全身の筋との協調性の問題、内反足や外反膝などの静的アライメントの問題など身体的因子を洗い出す、それでもまだ不十分である。トレーニングの内容、強度、頻度はどうなのか、練習場所のサーフェスは、シューズの選択は、果たして指導者の指導方法は適切なのか、練習中の集中力など心理的な問題は、そもそも予防プログラムをつくっても真摯に取り組むのか、日常生活を含めたコンディショニングはできているのか、このような動きが要求されるバスケットボールの競技特性に問題があるのではないか、それ以前に女性であることがそもそも問題ではないか。
さて、リスクマネジメントとはどうあるべきなのだろう。
捉えるセンス
本書はその題名から察せられるような、よくある医療リスクを論じたものではない。メタボリックシンドロームを巡る「健康増進」に関する取り組みや、新型インフルエンザを巡る「リスクパニック」などを題材に挙げてはいるが、リスク概念を医学や神経科学、経済学、人類学、社会学といった多方位の視点から考察し、現代社会に氾濫するリスクに対して持つべき思想をつくり上げる手助けとなるよう構成されている。
「医療社会学の皮を被った批判的社会理論」とは著者の言葉である。単純に事象を断じず、別座標に存在するかに見えるさまざまな要因のつながりを探り当て、やや難解な文章を持って論じるその姿は強引なようだが、読後は物事を捉えるセンスが広げられたように感じる。
ACL損傷のリスク低減のために練習量を減らすようなことがあれば、チームが機能するために必要なトレーニング効果が修得できないという新たなリスクを生み出すことにもなる。バスケットボールではその特性上、膝の靱帯を損傷しやすいという一片の事象が、もし「専門家」と呼ばれる人びとによってもっともらしい尾ひれをつけられて巷間伝われば、これからバスケットボールに参加したいという気持ちに足枷を付けるという風評となるかもしれない。予防運動プログラムを作成したのはいいが、どこかの雑誌を真似た形だけのもので、それなら他にその時間や予算を使ったほうがいいといった、ただの儀式になってしまうかもしれない。それならまだしも、誤った認識によるプログラムであったために傷害が増えるという可能性も否定できない。優れた予防プログラムであったとしても、生活習慣を改め自己コントロールすることを抜きにして、処方されたものだけをこなせばいいという考え方では、その期待される効果を発現することはできないだろう。そのような考え方をする選手は、もし自分が負傷したときにはリスクを避けられなかった責任を指導した側に全て押しつけることが当然と考えるかもしれない。このような例であればまだしも、現代を生きる我々はリスクという概念に翻弄されてはいないだろうか。
バランス感覚が必要
「リスクは計算可能である」と言われる一方で「リスクに関する人間の意志決定や選択は、客観的な数学的確率で合理的に決められているわけではなく、リスクの主観的経験やその情動的側面によっても影響されやすい」ことも事実だろう。将来に「もっとも望ましい見通し」が立てられるよう、我々には踊らされることのないバランス感覚が必要となる。自らの身体に関しても、「生きている人間それ自体の生命に注意を払う権力」が掲げる、医療・福祉サービスに相当する社会的実践」という名の「身体の多様性をコントロールするさまざまなテクノロジー」により守られることは決していいことばかりではない。我々はもっとシンプルに生きられるはずだ。
(山根 太治)
出版元:青土社
(掲載日:2013-03-10)
タグ:リスク
カテゴリ その他
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