運動・認知機能改善へのアプローチ 子どもと高齢者の健康・体力・脳科学
藤原 勝夫
それって本当?
科学的態度とは、常に疑問を持つということだと思う。定説となっている理論でさえ、むやみに信じてしまうことなくニュートラルな立場で情報と向き合う態度が、私たちスポーツ科学の発展を願う者には必要だ。
たとえば、子どもの体力低下が叫ばれて久しい。このことについて証明するデータは枚挙にいとまがないし、直感(あるいは刷り込み?)的には素直に同感してしまうのだが。体力とは環境への適応結果として現れたものが測定されるのだから、昔のような体力が今の社会には必要なくなったための必然的結果である、とも考えられないだろうか。なのに、子どもの体力が劣った劣ったと叫ばれているところに違和感を感じる。
はたまた授業の場において、現在の体力について感想を学生たちに書かせると “平均より強くてよかったです”、“落ちてて悲しかった”、“やっぱ体力は必要です”、“歳をとっても動けるよう部活ガンバリマス”などなど、判を押したように“体力あることはよいこと”のオンパレードとなることに違和感を覚える。
違和感ついでにもう1つ。“健全なる肉体に健全なる精神が宿る”という表現がいろいろな場でなされますね。この言葉に違和感を覚える人は少なくないと思うのだがいかがだろう。病んだ人には健全な精神が宿らないの? と、突っかかりたくなってしまう。まあ、これ自体じつは誤用で、本来は“健全なる肉体に健全なる精神が宿るように祈りなさい”というのだそうで、こちらの表現ならまだわかる気がするけれど。
目的? 手段?
さて、上記3例に共通して感じる私の違和感とは“体力がないのは悪いことなの?”という点だ。なぜなら、運動できない子は“ダメな子”なの? という連想を禁じ得ないからだ。極論すれば、病気があったり何かの理由で運動ができない人たちの存在を否定することになりかねないという危惧さえ感じるのだ。
体力があることは、確かに日常生活の場において便利だと思う。しかしその測定値が平均から外れていることに一喜一憂し、本来、人それぞれの多様なQOL(Quality of Life、生活の質)を高めるための手段であるはずの体力や運動が目的化し、体力の“大小”を人の能力の“優劣”として短絡的に捉えてしまうことがないようにしたいものである。老いも若きもトップアスリートも、人それぞれに応じた“幸せな体力”のようなものがあると思うのだ。
やはり運動はよい
本書は、これらのヒネクレた疑問に対して、解決するためのヒントを多大にもたらしてくれる。「ウォーキングやジョギングなどのリズミカルな運動は、筋はもとより脳の働きを活性化」し、「片足立ち」や「旗あげ」遊びなどの比較的緩やかな運動でも「前頭前野」の働きが活発になるそうで、「発育期に身体運動を行うことによって、大脳皮質のネットワークが強化され」「前頭前野」の機能が維持されると考えられるようだ。
前頭前野とは、いわゆる“良識”を司る脳の部位だそうだから、子どものときに運動を“実体験”するのはよいことなんだな。それも、緩やかな運動でも活性化するのだとすると、運動が苦手だったり、身体が弱かったりする子どもでも大丈夫そうだな。「コンピュータゲームに慣れてくると、前頭前野の活動は、ゲーム中に低下」するので好ましくないらしい。だけど、ゲームをしている時の子どもの集中力ってのもスゴいんだよなあ。α波がいっぱい出るみたいだし、別の解釈が成り立たないもんかなあ。
子どもの「体力低下の直接的要因は、身体活動量の減少であるが、間接的要因には就寝時刻・起床時刻の遅延化、睡眠時間の短縮化、朝食欠食などの生活習慣があげられる.それらが影響して低体温、自律神経失調、貧血などが惹起され、体調不良の子どもが激増している」のだという。
なるほどなるほど。測定された体力には環境に適応した結果が表れるのだとすると、体力測定値が下がるということは、裏側に好ましくない生活習慣があるということなのか。
などと考えながら読み進めるうちに、実はこれらのほとんどのことは私の“身体”がすでに知っていることに気がついた。さらに、本書の著者たちが考える手がかりとして自分の身体を見つめ、身体のイマジネーションによって研究を重ねてこられたのであろうことに気づかされた。やはり運動ってスゴい!
(板井 美浩)
出版元:市村出版
(掲載日:2012-10-12)
タグ:体力 身体 認知
カテゴリ 身体
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