二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学
キム テウ 酒井 瞳
2024年が始まってから数カ月が経ち、ほんのりと温かい日差しを肌で感じるようになってきた頃、私はとある身体上の不調を理由に、病院(正確には「診療所」)へと赴くことになった。しかし、病院にまだ向かってすらいないにもかかわらず、私は既に四苦八苦していた。というのも、私は病院という空間が非常に苦手だからである。注射が怖いとかそういった子供じみた理由でないということを予め断っておきたい。基本的には、あの空間に感じる独特な「何か」が苦手なのである。大抵は白だったり薄い水色だったりクリーム色だったりする壁に囲まれた空間、いかにも「ここは衛生的ですよ」と言いたげに清潔感を演出する空間、働いている人みながパリッとしたピンクや黒、多くは白の制服を身に纏っている空間、そして日常生活ではあまり耳にしない語彙が飛び交う空間、あるいは番号がモニターに表示され、それに従って行動する空間、そこに何かしら過剰な同一性を感じるのだ。それは決して「病院」という空間に限ったことではないだろう。学校や会社といった空間も同様に、私としては居心地がよくないと感じている。行ったことはないのであるが、おそらく刑務所といった空間も同様であろう。しかし、病院という空間ほどそれを強く意識させられる場所は他にないと言ってもよいほどなのである。
そんなことをあれやこれやと考えながら病院へと向かう道すがら、ある考えが私を襲ってきた。それは「なぜ病院に行こうと思ったのだろう? なぜ、あそこではなくここ、つまり整骨院や鍼灸院、カイロプラクティックの施術所やその他民間療法と呼ばれる類いの治療が受けられる場所や教会などといった宗教的空間などではなく、他でもないこの『病院』というところに行こうと思ったのだろうか」という考えである。それと共に、なぜ病院はこうなっているのであって、ああではなかったのか、という疑問もあった。つまり、なぜ医師はこのように語り、このような語彙を使用し、このように検査し、このように治療するのだろうかという疑問である。これに対して「それが効果的だと実験で確認されたからだ」と答えることは、この疑問を些かも動揺させないと私は考えている。それについても「なぜそうなのか」と問うことが依然として可能であり、この問題はそっくりそのまま残っているからである。このような説明で満足できるのは、合理的に展開される歴史という一つの神話を前提せずには不可能であるという思いも私を襲っていたのだ。
一度気にかかると歯止めが効かない質である私としては、病院の前についたときも、初診だということで問診票にある空白を一つ一つと埋めていっているときも、受付の方に呼ばれて診察室に入ったときも、医師による早口の説明を聞いた後に検査室に案内されたときも、検査結果と医師の病態把握が説明されているときも、受付で会計を待っているときも、薬が手渡されたときも、常に「なぜああではなく、こうなのか」という疑問が私の頭を埋め続けていた。このときの私を襲っていたのは「歴史の天使」(ベンヤミン)の眼差しであると言ってもよいかもしれない。私はある意味では、過去に目を向けていたが故に、他でもありえたかもしれない現在に思いを馳せていたのである。そのような眼差しを内面化した私に対して、歴史は多くの「謎」をその顔に浮かべながら近づいてくることとなった(大澤真幸)。この問いに対する答えは一筋縄にはいかないだろう。いやむしろ、この問いそのものを問いに付すことさえも必要となるかもしれない。普段、何気なく生活しているときには気にも留めないもの、でも、何らかの機会に顕現し、目線を逸らすことを拒むような何か、それらにこそ注目すべきなのではあるまいか。当たり前とされ、そのことがあるということの偶然性が覆い隠されて不可視になったそれをこそ、問いに付すべきなのではあるまいか。そんな思いに駆られていた。
こういう問いは、これまでにも私の注目を集め続けてきたのではあるが、今回、このような問いに対する一つの語りが世に出たと知り、私はすぐにそれを手に取った。それが本書、『二つ以上の世界を生きている身体 韓医院の人類学』である。本書は、医療という実践がなされる様々なフィールドへと「旅」を行ってきたキム・テウ氏による旅行の記録、いわば「旅行記」である。旅をするとは、異なる空間に身を置くことである。現地の空気を感じることである。そして、他者に出会うことである。それはまさに、キム氏が述べる「人類学」の営みそのものである。本書が人類学的研究の実践を「旅」と呼ぶのは、そのような意味においてである。それは、他なるものに対する想像力を養ってくれることにもなるかもしれない。
本書の特質は、言葉に対する慎重な態度だと言っても間違ってはいないだろう。キム氏は「語ること」に慎重である。本書の最後に「付言 用語解説、または用語解明」という項目が独立して設けられていることが、そのことを端的に表している。そこでは、言葉と知の繋がりが主題とされている。これは非常に重要な視点だと言って差し支えない。
現代の日本社会においては、西洋近代医学なるものが支配的である。故に、鍼灸に代表される東洋医学的なるものは、どこか怪しい雰囲気を帯びたものとして眼差されている。ともすれば、それは非科学的なものとして糾弾されることもあるだろう。それは、非合理的なものとして扱われることもあり、容易に打ち捨てられることにもなりかねない。しかし、本書はそのように安易に事態を投げ捨てることを拒む言葉で埋め尽くされている。そこには、同一性を追求する実践ではなく、差異に目を向ける実践が積み上げられているのだ。
本書を読むと、医療について問うことの意味の広大さを再認することができる。医療について問うことは、単にそれだけには収まらない射程を秘めているのだ。なぜなら「医療は人間の存在に対する根本的な問いとつながっている」からである(33頁)。医療は、人間の存在論的な土台である身体と繋がり、そこ身体の理解は身体の外にある世界の理解と接続されている。つまり、「さまざまな医療に対する人類学の議論は、各文化が積み上げてきた人間の存在と、世界に関する多様な理解をひも解く機会を与えてくれる」(35頁)のであり、「医療は、健康のための知と行為の体系以上の意味を持つ」のだ(39頁)。このことを理解する機会を提供してくれているというだけでも、本書が「ある」意味は小さくない。そこには、閉じている空間を開くことの可能性が現前している。実のところ「医療のあいだには差異がある」のである(204頁)。近年は、東洋医学の西洋医学的解釈が流行となっている。東洋医学的実践が西洋化されつつあると言ってもよいかもしれない。それは東洋医学的実践を、西洋医学的な語彙でもって語ることである。差異を自ら解体し、西洋的なるものに同一化しようとする動きが活発化しているのだ。本当にそれで良いのだろうかという疑問はありえるが、本書はそのような東洋医学の西洋化に待ったをかける停止線ともなるだろう。東洋医学は、今一度自身の差異に目を向ける必要があるのかもしれない。
そんなとき、「医療が一つでなければ身体も一つではなく、身体につながっている存在も二つ以上なのだ。したがって世界も一つではない。複数の世界で私たちも、また異なるノーマルを実践することができる」と声を上げる本書は良き伴走者となってくれることだろう(227頁)。それは、医学的実践が、必ずしも一である必要はないことを確認させてくれる。同一性の確保に躍起になるのではなく、差異を引き受けることを推奨しているのだ。本書は、アネマリー・モルに代表される「存在論的転回」以降になされた医療人類学的研究の結果であり、「多」へと目が向けられている。医学的実践が一となるとき、それは他の実践を排除することになるだろう。もはや起源の偶然性は忘却され、それだけが唯一の歴史となる。そこにおいては、西洋医学の政治的な全面化が果たされている。本書は、そのような画一化を拒絶し、多様にありうる「異なるノーマル」に目を向けさせる。一ではなく多に目が向けられるとき、医療実践には決定的な変更が迫られることだろう。そのような可能性の追求は、決して意味なきことではない。しかし、注意せねばならないのは、ここでは優劣が志向されているわけではないということである。西洋医学的な視点から東アジア医学を見ることは、ときに植民地主義的な志向性を内包する。本書は、そのような視点を拒絶し、両者の特質を明らかにせんとしているのだ。
同一性から差異へのシフト、優劣の二元対立ではなく、異なる多の体系への志向性、そういったものの可能性が追求されているのが本書である。キム氏の旅行記を読むことで、異なるものに出会い、その空気を感じ、自身の外へと逸脱する機会が与えられる。是非とも読者の皆様にもその言葉を、その語りを感じていただきたい次第である。
(平井 優作)
出版元:柏書房
(掲載日:2024-09-06)
タグ:人類学 東洋医学
カテゴリ 身体
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