日本エッセイ小史 人はなぜエッセイを書くのか
酒井 順子
著者は婦人公論文芸賞と講談社エッセイ賞を受賞している書き手であり、高校時代から雑誌でコラムを執筆していたという。読み終えてから略歴を見て、「ああ、だからここまで書けるのか」と妙に腑に落ちた。著者は筋金入りの“エッセイ好き”である。そうでなければ、160点を超えるエッセイ作品をこれほど熱量をもって語りきることはできないだろう。途中からこちらが追いきれないほど、好きなものを好きなだけ挙げていく――そんな本は近ごろあまり見かけない。そういう意味で本書はとても印象的だった。
本書で著者は、明治末期の文壇で交わされていた小むずかしい論策から、作家たちがいわば「逃れる」かたちで、大正末期には知識人でも大衆でもない中間的な層に向けた「随筆」が好まれていったこと、さらに昭和末期には「難解なものよりわかりやすいもの、堅苦しいものよりカジュアルなもの、重いものより軽いものが求められた時代であり、だからこそ随筆、エッセイ、コラムが人々から受け入れられたのです」(p.41)と述べ、時代の変化と読者層の広がりをていねいに説明している。
結びで著者は、エッセイは際限のない曖昧さをもち、そのために小説や詩歌と比べて「軽い」と見なされがちだが、むしろその「軽み」こそがエッセイの本質であり、だからこそ誰もが参入でき、結果として時代をもっとも濃く映す鏡となるのだと説く。エッセイは曖昧で、軽い。これが「人はなぜエッセイを書くのか」という問いに対して著者が差し出した手がかりなのだろう。
16世紀フランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュが著した『Essais』は、現実の人間への洞察を断章的・非連続的なスタイルで綴り、モラリスト文学の源流をなしたといわれる。フランス語の essai は「試み」「企て」を意味し、体系だった哲学ではなく、みずからの経験や古典の読解を踏まえて書く形式がモンテーニュ以降広まった、と考えても大きくは外れないだろう。本書で著者が熱をこめて紹介していた数々の日本のエッセイも、おそらくこの “essai 的なもの”――人間、引いては社会への洞察を綴る試み――であったはずだ。その試みが読者の心を捉え、ときに社会的なムーブメントすら生んできたのだと思う。
では現代のエッセイはどうか。暇がなくても、つねにインターネットに張りついている人が大半を占めるようになったいま、私たちはどんな「試み」を書きうるのか。個々人の essai は、たしかに商業的価値をすぐには生まないかもしれない。だが、エッセイが曖昧で軽やかなジャンルなのだとすれば、商業的発展よりも、より個人に根ざした内省の試みへと重心が移っていく時代になってもおかしくはないだろう。
(飯島 渉琉)
出版元:講談社
(掲載日:2025-11-04)
タグ:エッセイ
カテゴリ その他
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