ロボットはなぜ生き物に似てしまうのか
鈴森 康一
ユニークな本
冒頭に「生き物は、自然界で長い進化の歴史を経て生まれたもの、いわば『神様が設計したロボット』である」という言葉が書かれている。本書はロボットの設計者が、理詰めで考えに考えてたどり着いた結論に、生き物が先に到達していることに対する畏敬の念と、それを超えたいという野心とが入り混じった、非常にユニークな本である。私のような工学的知識の皆無な者にはよくわからない部分も多いが、そういうことを気にせずに楽しく読めた。
しかし私は、これには少し違和感を覚える。ダーウィンの進化論は「変化(進化)には目的も方向もない」ということを基本としている。そして、「生き物は枝分かれを繰り返すことで多様性を増してきた」と主張している。途絶えてしまった枝は二度と復活しないし、枝が後から交わることもない。しかし、ロボットは何かの目的のために設計されるものである。枝を分かれさせるのも交わらせるのも、途絶えた枝を復活させるのも人間の意図次第で可能だ。
そう、生き物は意図的にその形や機能を獲得したのではなく、今生きている種は、枝分かれを繰り返して今も途絶えていない種だというだけである。たとえそれらが理にかなっている形態や機能を持っていて、それを神様が設計したのだとしても、自分の設計したロボットが意図せずそれに似てしまったというのは、ロボット設計者の傲慢ではないだろうか。それは、自分たちが神様に近づいたと言っているのと同じだから。そのうち自分を創造主と錯覚してしまうのではないか、というとSF漫画の読み過ぎだろうか。
ロボットは、色々なタイプの試作品を作り、改良を加えたり、後戻りして設計しなおしたりして、より完璧を目指すことができる。一方、生き物も確かによくできている。しかし、理詰めで設計されているわけではない。手持ちの能力で何とか目の前の現実に対処してきた結果の産物である。生き物の機能や形態や行動が理にかなっているというのは、後づけの理屈なのではないだろうか。『PLUTO(プルートゥ)』という漫画をご存知だろうか。鉄腕アトム「地上最大のロボット」を浦沢直樹さんがリメイクしたものである。ロボットに「命」はあるのか。ロボットが感じる喜びや悲しみや怒りや憎しみといった「心」は本物だろうか。結局、ロボットと人間はどう違うのだろうか、という問いかけがドスンと伝わってくるすごい漫画である。
現実の世界では、ロボットはどこまで発達するのだろうか。従来のロボットのイメージは産業用ロボットのようにパワフル・頑丈・正確というものであった。しかし近年、生き物のように柔らかさを備えたロボットの研究開発が進んでいるらしい。スキッシュボットという大きさや形や柔らかさが自由に変わるロボットは、身体の形を自在に変えて狭い空間にも入り込んでいける。ドラえもんの手にそっくりなロボットアームは、相手の形に合わせて形を変えることでどんな形状のものでもつかむことができる。意外に感じるが、従来のロボットはドアノブを持ってドアを開けたり、ビーカーのような硬くて割れやすいものをつかむのが苦手であった。しかし、ロボットが柔らかさを獲得することでそれらが可能になる。さらに、多少の損傷なら壊れた組織を自分で修復してしまうようなロボットの実現の可能性も示唆されている。
こうなると、漫画や映画の世界が現実のものになるということも、全く否定できなくなりそうだ。人工知能が飛躍的に発達し、「心」が芽生えることも近い将来本当にあるかもしれない。
命は生き物にしかないか
本稿の構想を練っている時期に、私は身近な人を2人も亡くした。このことは、私に生命について考えるという機会を与えてくれた。
ロボットが生き物に近づけば、それを「命」と呼ぶようになるのだろうか。ロボットが稼動している状態を「生きている」というのだろうか。ロボットが修理不能となり廃棄せざるを得なくなったことを「死」と捉えるのだろうか。長年苦楽を共にしたマイカーを廃車にするときに泣いた、という話はよく聞くが、それとは違う次元でロボットにも「命」があると言えるのか。それとも、「命」とは生き物にしかないものなのだろうか。
生き物とロボットの違いってなんだろう。
(尾原 陽介)
出版元: 講談社
(掲載日:2012-12-10)
タグ:進化 形態
カテゴリ 身体
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