スポーツ選手のためのキャリアプランニング
Petitpas,Al. Champagne,Delight Chartrand,Judy Danish,Steven Murphy,Shane 田中 ウルヴェ 京 重野 弘三郎
「メダルがとれたら、もう死んでもいい」
こんな言葉で始まる「訳者まえがき」が秀逸だ。本書の内容をさしおいて「まえがき」が秀逸という書評もないだろうと訝る声も聞こえてきそうだが、実は本書が訳本だけに、ある種読者に持たれがちな対岸の火事的非現実感を、いっきにわが国においてもきわめて現実的な問題であることに気づかせてくれるのがこの「まえがき」なのである。これによって、その後に続く本編の内容がぐっと現実味を帯びて読者に迫ってくる。
この「まえがき」を書いたのは、翻訳者のひとりである田中ウルヴェ京さん。ソウルオリンピック・シンクロナイズドスイミング・デュエットの銅メダリストである。彼女は「ソウルオリンピックで晴れて銅メダル。至福のときだった。(中略)『自分は大きな功績を果たしたのだ』と思ったら、なんともいえない幸福感と達成感に満ち溢れていた」そうだ。しかし、ほどなく彼女はあることに気づく。「オリンピック自体は人生の通過点に過ぎないこと。それが私には分かっていなかった。」その後、彼女は深い人生の闇の中に吸い込まれていく。「もう死ねたらどんなにラクだろう。本音だった」。
そんな彼女を救ったのが米国留学先で学んだスポーツ心理学。そのカリキュラムの教科書のひとつが本書である。多分、彼女は本書の内容に自分自身を投影させたに違いない。そして、自分と同じ苦しみを後輩に味合わせてはいけないとも感じたに違いない。
もうひとりの訳者は、元Jリーガーの重野弘三郎氏。彼もまたスポーツに専心してきた一人である。そして、田中氏同様引退時に深い闇の中をさまよった経験を持つ。「多かれ少なかれ、ひとつの競技に専心してきたスポーツ選手、そして(結果を残した)エリート選手であればあるほど、引退時に抱える心理的問題が存在する」。強い日差しに曝されればそれだけ、樹木はその反対側に黒々とした陰をつくるようだ。
キャリア・トランジションとコーチング
本書のキーワードのひとつに“キャリア・トランジション”という言葉がある。これは、“人生の分岐点”という意味の言葉である。「人は誰でも、人生において分岐点を迎えるものである。これを『トランジション』と呼ぶ。(中略)高校から大学へ移行するとき、あるいはジュニアからシニアのレベルに移行するときがそうである」。そして、人は進学のような予想可能なトランジションだけではなく、予想不可能なトランジションも経験する。たとえば、スポーツ選手がケガによってそのスポーツを継続することが不可能になったときなど。このような場合、選手は突然自分の今まで積み上げてきたキャリアを放棄せざるを得ない状況に陥るわけで、尋常な精神でいられないことは想像に難くない。このような選手を苦しみの淵から助け出すのがコーチの役割でもある。「現役活躍中にキャリアプランを立てることにはいくつかの利点がある。まず第一にスポーツのパフォーマンスによい影響をあたえる。(中略)引退後の方向性をつかめる。(中略)自己についてより深く学べる」。スキルを教えることだけがコーチの仕事ではない。子どもたちに“未来”を教える、おこがましいかもしれないが、これもコーチの大切な仕事と考えたい。
本書の最後に翻訳者お二人の対談が収録されている。「私たちのキャリア・プランニングから」と題した対談では、お二人の引退後の葛藤とそこから抜け出したいきさつが正直に語られていて好感を持つ。是非とも「訳者まえがき」と「訳者あとがきにかえて」を読んでから本文に進むことを、本書の読み方としてお薦めしたい。
A・プティパ他 著、田中ウルヴェ京、重野弘三郎 訳
(久米 秀作)
出版元:大修館書店
(掲載日:2005-11-10)
タグ:キャリア セカンドキャリア 引退
カテゴリ 人生
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