池田晶子 不滅の哲学
若松 英輔
「死の床にある人、絶望の底にある人を救うことができるのは、医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて、言葉である。」哲学者の言葉を引きながら、ここでいう言葉は、色や形、音、芳香や、まなざしをも含めた「コトバ」であると著者の若松英輔氏はいう。
コトバは言語的形態として、たしかにある。しかし、それは一形態としてであって、苦しいとき、悲しいときに魂にふれ、寄り添うものはそれだけではない。
コトバを通じて他者と交わる。本を読むという行為もそのような営みにほかならない。
「書き手の生む言葉は、いわば可能性を秘めた炭素の塊に過ぎない。それに、読むという営みを通じて圧力を加え、固い、輝く石に変えるのは読者である。」
「私たちは小説を読むように、詩を読むように、哲学の文章を読んでかまわない。あるいは、音楽を聴くときのように、絵を見、彫刻にふれるときのようにヘーゲルの言葉を、あるいは池田晶子の言葉を「読む」ことがあってよいのである。」
そして、考える。池田は考えれば、悩むことはないという。悩まれている事柄の「何であるか」を、まず考えなければならず、「わからないこと」を悩むことはできない、というのがその理由。えー難しい。
考えることで、見えてくる地平とは如何に。
「旅先で、自分の魂のありかを教えてくれるような『場所』に出会う。人が固有名をもつのは、『場所』が地名をもつ意味においてである。固有でありながら、大地はどこまでもつながっている。それは異界にもつながっている。人も同じである。」
個に徹すれば普遍に通ず。哲学者と著者が共有しているのは、そんな確信に近い感覚だ。
考えて、わかる。では、わかるとは何か。
「『わかる』の経験において、自他の区別は消滅する。それは、対象が言語に表出された感情や観念である場合に限らない。未だ言語に表出されていない、すなわちまさしくいま『わからない』事柄を、『わかろう』とする動き、これが可能なのは、それを『わかる』と思っているから以外ではない。」
池田晶子の「月を指す指は月ではない」というコトバから著者(若松氏)は、この月を観る目を、魂と呼ぶ。ソクラテスによれば、生きることとは「魂の世話をすること」だ。生きることとは、月を観る眼を養うこと、こう言い換えても、差し支えないだろう。
(塩﨑 由規)
出版元:トランスビュー
(掲載日:2022-11-14)
タグ:哲学
カテゴリ その他
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