スポーツにおける逸脱とは何か スポーツ倫理と日常倫理のジレンマ
大峰 光博
副題の「スポーツ倫理と日常倫理のジレンマ」については、スポーツに携わり仕事をする一人として、私自身も考えたことはあるが、確信がもてるほどの答えを見出したことはない。スポーツ経験がある人であれば、自分自身と指導者との適合、チームの中での立ち位置、その競技をすることの意味など、一度は考えたことがあるのであろう。
まえがきにある筆者のお気に入りの表現、「たかがスポーツ・されどスポーツ」は、スポーツが様々な社会問題に対して周辺に位置しているからこそ役立てることがあるという考えからだと述べている。それは、まさに私自身が日ごろ考えていたことと合致するものだった。
「多くの問題を抱えるスポーツから逃れられない人間」と自称する著者が、川谷茂樹氏や中島義道氏らの日本を代表する哲学者の知見と、カントなどの海外の歴史的な哲学者や、近現代の様々な発表や論文から、日本で問題になっているスポーツにおける問題を、哲学や倫理の面から解説・示唆している著書である。
本編前半では、試合中のジレンマとして、バスケットボールのファウル・ゲームやサッカーのトラッシュトーク、野球の報復死球などについて解説されている。当該競技の指導に携わる者にとって、少なくとも一度は考える問題なのではないだろうか。 後半には試合外のジレンマとして、体罰や連帯責任を取りあげている。組織運営や日本特有の運動部活動の問題を、組織への従属メカニズムをもとに解説し、発展として、不祥事に対する対外試合禁止処分や無観客試合処分などの組織決定の是非を考える機会も与えてくれている。
私が一番印象に残ったのは、哲学的には、スポーツにおける人種、性、身体障がい、階級などに対する差別は、むしろ社会で存在している差別がスポーツの場面で表面化しただけだが、この差別を生み出す、差別感情や差別意識はスポーツによってより多く生み出されるということだ。多くのスポーツの場合、この差別意識を生み出さないことは不可能ととも述べている。文中、筆者が衝撃だったと挙げる、「スポーツは勝者に優越感というより、敗者に劣等感を与える。人はスポーツに限らず、良いことを目指す限り差別はなくならない」という中島氏の主張は、私自身にとっても衝撃的なものだった。
また、私自身の価値観と大きく違い、発見を与えてくれたのは、必ず人との比較において成り立つ競技スポーツにおいては、順位や優劣をつけることが目的であり、個人の「向上心」については、集団に属する限り、集団の目標達成にはなんら結びつかないということだった。哲学的に考えると「向上心」は向上心がない人を見下すことにつながる。深く考えず、美化され、推奨されるべきものとして認識していた「向上心」について深く考えさせられた。
差別や偏見の根源は「よく考えないこと」と文中でも述べている。だが、やはり考えれば考えるだけ、スポーツと日常倫理の間にはジレンマも生まれる。トップアスリートは他者に対して容赦なく抜きん出る意志を持つことが必須であり、貪欲な姿勢と圧倒的なパフォーマンスが、我々に感動をもたらすことに疑いの余地はない。
スポーツが包含する構造的特質を理解し、スポーツに対して、過度に美化せず、過度に卑下しない意識をもつことが重要とする筆者の考えに共感する。哲学的に考え、社会倫理と照らし合わせて考えることが、スポーツと日常生活のギャップで生まれるジレンマを考える手がかりになると実感することができた。
スポーツ自体を考える大きなきっかけになる一冊となった。
(河田 絹一郎)
出版元:晃洋書房
(掲載日:2021-02-06)
タグ:倫理
カテゴリ その他
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社会を変えるスポーツイノベーション 2つのプロリーグ経営と100 のクラブに足を運んでつかんだこれからのスポーツビジネスの真髄
大河 正明 大阪成蹊大学スポーツイノベーション研究所
現代においてはスポーツビジネスも組織的に成り立つ業態として認知されていますが、数十年前はまず「興行」ありきで、組織的というよりも中心的人物の個々の力によるところが大きかった印象があります。しかも得られる利益は純粋な興行収入だけではなく、相撲界でいう「谷町」のような贔屓衆やスポンサー的な企業に依存することも少なくなく、およそ「ビジネス」とか「経営」という雰囲気とは縁遠い感じでした。日本においてスポーツビジネスといえばプロ野球が筆頭格でしたが、それも親会社の宣伝広告という形式の上に成り立つもので、スポーツそのもので利潤を上げるまでに至ったのは最近になってからのことだと思います。運営と経営が分離せず経営のノウハウを持たない人が、出資者とのつながりでやっているビジネスというのが、過去のスポーツビジネスの実態であり、その時代からの変革が本書に記されています。
本書の印象として、「経営」の対象が「スポーツ」であることを明確にした「経営学」の本という受け止め方をしました。スポーツに限らずとも経営のあり方はすべての業態において様々です。その中でも成功により近づくためには論理的な方法論が必要になります。問題点の抽出、整理、解決法など良くも悪くも様々な状況に耐えうるものが構築されることでその確率が上がるのでしょう。筆者はそれを個人の才覚として運営するのではなく、経営者が変わっても運営のあり方が継続する枠組みの構築をされたところに意義を感じました。
スポーツ界の内在的な問題点と今という時代における周囲の環境下でどう立ち回るかという問題点に、きめの細かい分析をしたうえでひな型をつくられたというのは、今後のスポーツ界における大きな財産になりそうな予感がします。変化の激しい時代ですので、その都度アジャストする必要性も出てきそうですが、少なくとも何をどう考えるのかという根っこの部分として今後も本書のアプローチは必要になりそうです。
私個人としては経営哲学みたいなことには触れたこともありましたが、本書は人文科学としての経営学だと思います。スポーツビジネスに限らず経営者目線からの分析の仕方やシステムの構築など、あらゆるジャンルの経営にも役立つお話がいっぱいありました。
(辻田 浩志)
出版元:晃洋書房
(掲載日:2023-06-16)
タグ:スポーツビジネス スポーツマネジメント 経営
カテゴリ スポーツビジネス
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暴力をめぐる哲学
飯野 勝己 樋口 浩造
私は電車に乗っていると窓から見える風景を見たくなってしまう。それが使い倒している路線だとしてもだ。自分の内側と外側の“天気”によって、眼に入ってくる景色が折々の表情をするのが面白いからだ。
しかしそんな私の観察を目の前に座っている人間は知りもしない。その人からしてみれば、私は「ジロジロ見てくる若造」にしか映らないだろう。実際過去に目の前に座っていた外国人に「こっち見るな!」と語気荒く言われたことがある。他人というのは外見だけではよくわからないものだ。こうしてあらゆる争いが始まるのかもしれないなと思う。こうした出来事から「暴力性」について考えているなかで、タイトルに釣られてこの書籍に触れた。
この書籍はある勉強会で集まった様々な分野の研究者たちが「暴力」というテーマで議論して形にしたものである。
序章〜第9章までそれぞれの専門分野から分析した論稿が記載されている。といってもランダムに散っているわけではなく、大まかに3部にわかれている。
第1章〜第3章では暴力の根源的ありようについて。第4章〜第6章では具体的な社会状況で起こった暴力の語られ方について。第7章〜第9章では言葉や表現といった構造的暴力と物理的な暴力の違いから再度根源的な暴力について考察されている。
私の備忘録かつまだ本書を手に取っていない方のために各章毎の要約をすることは一定の範囲においては有益なのかもしれないが、本書の出版社ならびに蔵書している書店さんの利益への微々たる影響を気にして(という盾に面倒な気持ちを隠して)、本ページでは編著者である飯野勝己先生(以下飯野)が書かれた序章と第7章に焦点を当てていく。
序章において飯野は哲学的問題としての暴力について2つ挙げる。
1つは「“ただそうなっているだけ”の世界から、人間的な“この世界”が立ち上がる一契機としての暴力」(p.5)。我々が蟻塚のアリを観察するかのようなメタな視点で暴力的な行動を見ようとしたとき、それは自然のうねりの力としての「ただ、そうなっているだけ」と捉えることができないだろうか。
では我々が想起する“暴力”が立ち上がったのはなぜか。その段階として飯野は「心の理論」の発達へのアプローチや「内面の誕生」を論ずる思索的探索などを挙げる。他人に心や意図を認めないなら暴力にならないのではないかと。他者がいるから暴力があり、暴力があるから他者がある。そのように捉えることができるのが1つ目の哲学的問題。
2つ目は、一般的な「力(force)」の観点からの暴力。様々な「力」がバランスを保ちほどよく安定している場所、それが「私たちの世界」であると飯野は述べる。「暴力が暴力として際立つ背景条件として、“大筋のところの安定”があり、特異点としての“暴力”は、背景であるNormalな秩序との連続性にある」というのが2つ目に挙げた哲学的問題だ。
飯野は建物を例に挙げて説明する。静かに佇む建物には絶え間なく力がみなぎり動いている。しかし地震のようなイレギュラーな事態が起こると潜在的な力が顕在化する。このような構造が個人間のコミュニケーションにおいても、社会制度においてもあるのではないか。
この2つの哲学的問題をまとめると、暴力は私たちの世界に深く食い込み、繋がっているといえる。そして表象されている暴力に対する対処は単純ではない。暴力の根深さ、多様性、概念的多層性、これらをリアルに捉えることは簡単ではないからだ。そのような探求の実践が本書の内容となっている。
第7章「ひとつの暴力、いくつもの暴力ー「場所への暴力」試論ー」で飯野は、哲学・社会思想の領域での暴力を巡る思考には「国家論−法論的枠組み」が貫徹していると述べる(p.217 命名は飯野)。WeberやBenjamin、Eliasらを挙げ、私戦や決闘などがあった中世的世界から暴力の独占と集中管理が進展した近現代の国家がどのように生成してきたかを辿る研究の営みを紹介する。「国家論−法論的枠組み」の大枠として挙げているのが「暴力の独占」。物理的暴力の圧倒的優位性、むきだしの暴力を「法」という正当性という装いで見えにくくする。その力は領域内の時空に張り巡らされ、人々のふるまいに合法/違法の線引きをほどこす。
我々の平穏な日常のなかでは、わかりやすい暴力が見えにくい。普通の暮らしをしていれば法に触れることはない。しかしもとを正せばその“普通”の水準を定めているのは、「特段の正当性なしにただ事実として独占された暴力なのである。」(p.219)。国家は暴力から切り離せないし、暴力は国家から切り離せないのだろう。
では国家が独占している暴力とはなにか。Weberらの議論から、あくまで国家が独占しているのは「物理的・実力行使的な暴力である」(p.220)。集団の内に対しては逮捕や死刑などの正当化された力、外に対しては戦争行為などの正当化された力を排他的に独占する。しかし、そこに「言葉の暴力」などの抽象的なものは入らない。
国家を支える暴力は抽象的なあれこれを含むことのない物理的な暴力であるから、暴力一般の概念も物理的なものに限定して考えるというある種の「一元論」が展開される。 「国家論−法論的枠組み」は真正な「ひとつの暴力」だけがあり、「暴力のようなもの」は抽象であり比喩であり、意味の拡張に過ぎないというのが見方となる。
しかし、近現代国家のシステムにおいて物理的な暴力が減少してきた我々の生活に立ち返ってみると、「言葉の暴力」や差別などの物理的な暴力以外の暴力が顕在化していると直感的に思われる。 「国家論−法論的枠組み」での一元論とは対照的に暴力の「多元論」、「いくつもの暴力」が知覚されるのだ。第7章では「いくつもの暴力」の視点を掘り下げ、底のところで「ひとつの暴力」に繋がっているのではないかと論じる構成となっている。 「いくつもの暴力」のありようの描き方として飯野は、暴力の典型例にそなわる5つの概念層を挙げる。「危害」「危害への意図」「人為」「責任」「身体の動作」。
暫定的な作業仮説として、これらの5つの概念層からあれこれ抜いてみた暴力の描写を試みている。これらの描写の試みから、飯野は以下のことを述べる。「すなわち暴力とは単純な概念ではまったくなく、様々な概念層がからみあってようやくある行為や出来事に帰属される複雑な概念であり、もしくは評価観点ではないか」(p.230)。
このように「ひとつの暴力」から「いくつもの暴力」に軸足を移すと、「暴力はどんな形態であれ、白黒くっきり線引きできるものではなく、”暴力性”の濃淡さまざまなグラデーションを描くものであり、物理的なものもその他のものも、そのグラデーションのどこかにそのつど位置づけられる」(p231)というのが見えてくる。飯野はこの試みの中で「危害」という概念層に手をつけなかった。
では「危害」抜きの暴力というのは存在しないのだろうか。強靭な体をもつ人にパンチをしても暴力とはならないのか。罵詈雑言を浴びせられた人が強い精神力をもっていたら暴力とならないのか。
直接的危害とは「別の危害」について「ヘイトスピーチ」を例に取り上げる。
ヘイトスピーチの法的規則を主張する法哲学者のジェレミー・ウォルドロンの「安心」という概念を引用して展開する。「何か明示的なもの」(警察など)にあからさまに頼らなくていい、意識的に確保する必要がないというあり方自体が安心の重要な構成要素として考えられるが、ヘイトスピーチはこの安心を脅かすという。標的となるマイノリティだけでなく、第三者にも苦痛(怖い、嫌な感じがする、こんなもの見たくないなど)を与える。この第三者や環境を傷つけるヘイトスピーチ、言葉の暴力は「場所への暴力」という性格を持つ。実際ヘイトスピーチの中にも「ここはお前たちの“居場所”じゃない」などという文言なども見受けられるケースが多い。この「場所への暴力」が「いくつもの暴力」と「ひとつの暴力」の底をつなぐものとなる。
では、なぜ“場所への危害”は個々人への危害に直結するのか。「それはもちろん私たちが物理的かつ身体的な存在であり、この世界に存在するためには否応なくどこかの場所に居なければならない境遇だからである。」(p.236)と飯野は述べる。 「ひとつの暴力(物理的な暴力)」は様々な形態の暴力に、比喩や抽象ではない真正な性格を与える。「ひとつの暴力」から「場所への暴力」を介して「いくつもの暴力」が多元論的に現出すると、飯野は展開した。
ここまでが序章と第七章のざっくりとした内容である。
今回飯野の文章を書評の中心に置いた理由は、「暴力」について考える際に立ち返らざるを得ない地点がハッキリするからだ。
今こうして私が静かな住宅街の中で快適な温度の部屋の中でタイピングしている傍ら、海の向こう側では理不尽とも取れる爆撃が起こっていて、それを巡っての激しいnegotiationが起こっている。それは私のような日々を過ごしている人にとっては“暴力的な異常な状態”と見えるのだろう。
しかしもし我々の国がそのようなある種の戦争行為をせざるを得ない状況にあるとしたらどうだ。手垢まみれの液晶画面内で完結していた情報が、自分の目の前で行われているという状況であったらどうだ。飯野が展開していた「物理的な暴力」。我々が物理的で身体的な存在である限り、このシンプルな暴力が我々の生に内包されていて、我々がその手段を何も考えずに行使することが出来るというのは世の理なのだ。自分が気に入らないと思った対象が目の前にあるとき、あなたはどのような選択をとるだろうか。逃げるか? 黙ってもらうように交渉するか? それともどちらかが死ぬまで戦うか? 加害者−被害者という二項を生むのが「暴力」なのか。
加害者を取り締まる“法”の暴力性についてはどう考えるか。“法”でも“神”でも何に頼ってもよいが、我々の一挙手一投足が誰の血にも染まらずにいられることをどう証明しようか。 誰の涙も流さないようにいられることをどう証明しようか。
本書の第3章でスティーブン・ピンカーの「暴力と人類史」が取り上げられている。そこに書かれているように、国家というシステムでは集団間での致死的暴力は先史時代の死体分析から推測される当時の集団間での致死的暴力の数よりも減少しているという示唆がある。
また集団間だけでなく個人間における致死的暴力の割合も減少傾向にあるという(p.104)。詳細な精微については一旦置いておく。人類全体的に致死的な暴力が減少しているというデータがある一方で、今日も誰かが暴力によって死んでいる。この当たり前を様々な視点で考えさせてくれる本書であった。
(飯島 渉琉)
出版元:晃洋書房
(掲載日:2024-08-30)
タグ:哲学 暴力
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