思想する「からだ」
竹内 敏晴
『「からだ」と「ことば」のレッスン』(講談社新書)などの著書で知られる著者の新著。あれこれ言うより、著者の言葉を引こう。それのほうがわかる。
「いずれにせよ、『からだ』の対極に『ことば」を置くと見えて来る地平に私は生き始めており、『からだとこころ」を対にする地平は私に遠い、というよりは、そこには生きていない、と言うことであろう(P.115)
かつて聴覚言語障害者であり、弓道にも打ち込み、演劇にも深く関わる著者の「ことば」、あるいは「声」への言及は深く身体に問いかけてくる。思いもかけない「からだ」の発見。あなたは、どんな声でどんなことばを日々投げかけているか…。
四六判 238頁 2001年5月10日刊 1800円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:晶文社
(掲載日:2002-01-15)
タグ:身体 言葉
カテゴリ 身体
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「おじさん」的思考
内田 樹
主に大学生と高校生のトレーニング指導という職業について10年あまり。なぜ、人の話を集中して聞けない選手、注意されるとすぐふてくされた態度をする選手、あまりにも自分で考える力が欠落している選手がこんなにいるのだろうか? ずっとわからないままでいた。しかし、この本にめぐりあってみえてきたものがたくさんある。著書の内田は、「人にものを学ぶときの基本的なマナー」についてこんな風に言っている。
「今の学校教育における『教育崩壊』は、要するに、知識や技術を『学ぶ』ためには『学ぶためのマナーを学ぶところから始めなければいけない』という単純な事実をみんなが忘れていることに起因する。学校というのは本来何よりも『学ぶマナーを学ぶ』ために存在する場所なのである」
「『大人』というのは、『いろいろなことを知っていて、自分ひとりで、何でもできる』もののことではない。『自分がすでに知っていること、すでにできることには価値がなく、真に価値のあるものは外部から、他者から到来する』という『物語』を受け入れるもののことである。言い方を換えれば、『私は※※※ができる』というかたちで自己限定するのが『子ども』で、『私は※※※ができない』というかたちで自己限定するものが『大人なのである。『大人』になるというのは、『私は大人ではない』という事実を直視するところから始まる。自分は外部から到来する知を媒介にしてしか、自分を位置づけることができないという不能の覚知を持つことから始まる。また、知性とは『おのれの不能を言語化する力』の別名であり、『礼節』と『敬意』の別名でもある。それが学校教育において習得すべき基本であると言う」
まさに、現場で感じていた選手たちに足りないこと、その原因の1つがここにあるのかと。では「子ども」を変えるにはどうすればよいのか。内田はこう言う。
「子どもたちの社会的行動は、本質的にはすべて年長者の行動の『模倣』であると。だから、子どもを変える方法は一つしかありません。大人たちが変わればいいのです。まず『私』が変わること、そこからしか始まりません。『社会規範』を重んじ、『公共性に配慮し』、『ディセントにふるまい』、『利己主義を抑制する』ことを、私たち一人一人が『社会を住みよくするためのコスト』として引き受けること。遠回りのようですが、これがいちばん確実で迅速で合理的な方法だと私は思っています」
そう言えば、福沢諭吉は「一家は習慣の学校なり、父母は習慣の教師なり」とずっと前に教えてくれていた。
まずは、自分自身が内田の言う「大人」になること、すべてはそこから始まる。
(森下 茂)
出版元:晶文社
(掲載日:2012-10-16)
タグ:教育
カテゴリ 指導
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一流を育てる
朝日新聞be編集部
いったい、人を育てるっていうのはどういうことだろう。そもそも人が人を育てることができるのだろうか?
指導者の端くれとしてそんなことを考えるときがある。もちろん、指導者次第で選手やチームは大きく変わるのは間違いない。しかし、指導者は決して自分が育てたから選手が強くなったなどとは思うべきではない。
言葉を変えて言えば、勝手に選手が育ったのである。そう思うべきであると私は思う。だから、こういうやり方をしたら一流選手を育てられるなんていうマニュアルはないのだと思う。あるとすれば、そこに本気で選手のことを考えている指導者がいて、そこに本当に強くなりたいと思っている選手がいる。それだけのことなのだ。
その数々の、現場での指導者と選手の試行錯誤を紹介してくれている。この本を読み改めて思う、「一流を育てる」ハウツーなどはないってことを。
(森下 茂)
出版元:晶文社
(掲載日:2013-12-18)
タグ:選手育成 指導
カテゴリ 指導
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見えないスポーツ図鑑
伊藤 亜紗 渡邊 淳司 林 阿希子
「たとえ話」の活用
コツやカンといった実践知を獲得し、エキスパートとなるには長い年月が必要である。そしてその実践知は、明示されてない暗黙知であることが多い。しかもそれは、厳密にはその本人だけにしか当てはまらない。プレーヤーであれば、それをどう自分に取り込むか、指導者であればどう選手に伝えるか。ということを解決する1つの手段として、たとえ話が用いられてきた。
カヌーイストの野田知佑氏のエッセイにオールの漕ぎ方についてのコツが書いてある。氏が大学のボート部で、たとえ話のうまいコーチに教わったコツだそうだ。ボートやカヌーではオールを水に入れて水をつかむ動作をキャッチというのだが、初心者には難しい。オールを下手に水に叩き込むと、水を割ってしまい推進力にならない。うまく水をつかむコツは、「キャッチは女の尻をなでる時の要領でやれ、お前ら、ワカッタカ」だそうである(『のんびりいこうぜ』より)。いや、今ならこれは問題になりそうだが、1938年生まれの氏の大学時代のことなので許されたい。
しかし、たとえ話というのはそれを受け取る側にも相応の知識と経験がいる。「当時、僕のクルーは全員、純真無垢の正しい青年がそろっていて、女の尻はおろか手を握ったこともない奴ばかりでさっぱりワカラナイ。みんなで顔を見合わせて途方に暮れたものである。それで練習中フネを止めて真剣な顔つきで前の座席で漕ぐ奴の尻をなでたりした。知らない人が見たら、きっと誤解したと思う」ということになってしまう。
アスリートの感覚を“翻訳”
本書『見えないスポーツ図鑑』の取り組みは、視覚障害者とスポーツ観戦をする方法を探るところから始まった。そこから、トップアスリートの感覚を“翻訳”することで、初心者もそれを味わえるようにすることへと派生する。それを本書では「一つの道を究めた先人がいる道を、少しだけ同じ感覚で歩かせてもらうためのショートカットを作りたい」「私たちの身体感覚に新しいボキャブラリーをもたらしてくれる」「トップアスリートの感覚をインストールする」などと書かれていて、これはなかなかよい表現だな、と感心した。
“翻訳”のコツは、見た目を離れることと抽象化すること。前者は「非日常的な競技を、競技以外の動きに置き換えて伝えること」、後者は「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する、ある種の“見立て”」である。これは、とくに指導者であれば常にぶつかっている問題だと思う。たとえを使ったり、擬音を使ったりして、どうにかして感覚を伝えようとするが、うまくいかないことの方が多い。
その感覚を、手近なものを使って疑似的に体験してみよう、というのが本書でいう“翻訳”である。紹介されているのは10種目。ラグビー、アーチェリー、体操、卓球、テニス、セーリング、フェンシング、柔道、サッカー、野球。その内容は、そのままウォーミングアップとして使えそうなものもあるし、練習の合間の休憩時間にレクリエーションとして楽しめそうなものもある。もちろん、その種目の全てを“翻訳”できるわけはない。そして「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する」というのも、言うのは簡単だが、大変難しい。それでも楽しそうに、各種目のエキスパートと著者らがああでもないこうでもない、と言いながら、それぞれの種目のオイシイところが次第にクローズアップされていき、一応の形になるまでの過程はとてもおもしろい。
“翻訳”するなら
私は小学生に陸上競技を教えているのだが、私だったら、陸上競技の何を“翻訳”するだろうか。私が陸上競技に触れたのは小学校5年生か6年生の頃だ。走るのが速く、市内の小学校対抗の陸上大会に選抜メンバーで選ばれたのがきっかけだったと思う。それ以来、陸上競技との関わりは続いているが、何が楽しいのだろうと掘り下げて考えてこなかった。工夫して記録を伸ばすところが私の性にあっていて、やっている本人は楽しいのだが、そういうことではないんだよな。子どもたちに、陸上競技のここがオイシイところだよ、とアピールする材料が思い浮かばない。指導者でなければ、自分が楽しいからやっている、で問題ないのだが、仮にも指導者を名乗るのなら、その辺りの自分の考えを持っておくべきだろう。
自分の競技者や指導者としての実績に自信を持てないから、教え方のスタンスも定まらないのかもしれない。かといって、自信満々の指導者もイヤだなぁ。
(尾原 陽介)
出版元:晶文社
(掲載日:2021-04-10)
タグ:感覚
カテゴリ 身体
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水中の哲学者たち
永井 玲衣
「わたしの問い」からはじまる「手のひらサイズの哲学」、それは「大哲学」みたいな大それたものではなく、「なんだかどうもわかりにくく、今にも消えそうな何かであり、あいまいで、とらえどころがなく、過去と現在を行き来し、うねうねとした意識の流れが、そのままもつれた考えに反映されるような、そして寝ぼけた頭で世界に戻ってくるときのような、そんな哲学」だ(5-6頁)。優しく、美しく、柔らかく、そして曖昧でとても魅力的な文章の数々。それでいて、思わずハッとさせられる文章にも出会う。私はこの本を読み始めると共に、すぐに永井さんの世界に引き込まれていた。
とにかく、まずは一旦落ち着いて、本の表紙でも眺めてみよう。白と水色を基調とした美しい装丁の中にある「水中の哲学者」という言葉が目につく。私はふと、ヴィトゲンシュタインの名を思い浮かべた。この20世紀を代表する偉大な哲学者は、「水泳では人間のからだは自然に水面に浮かび上がる傾向がある。人間は水中にもぐろうと努力せねばならない。哲学も同じようなものだ」とよく言っていたようだ(ノーマン・マルコム)。このエピソードに「たとえ問いに打ちひしがれても、それでも問いとともに生きつづけることを、私は哲学と呼びたい」という永井さんの言葉が共鳴する(116頁)。たとえ水面に浮かび上がろうとも、それでも潜り続ける努力を止めたくない。それは、ときに苦しいかもしれない。しかし、それでもなお…。
「宇宙のバランス」を気にかけて「いや、でもさ」とばかり言ってしまい友人から怒られ、逡巡した挙句「ごめん、すぐアウフヘーベンしたくなっちゃって」と「意味不明な言い訳を」してしまう永井さんを、私はとても素敵だと思った(223頁)。考え続けることはときに苦しいが、どうしても考え続けてしまう人というのが世の中には一定数いる。そういう人は「哲学病」を患っているなどと言われたりもするが、その人たちが病に侵されているのではなく、世界の方が、あるいは生の方がどうかしてるのではないか? 気がついたときには既に世界があり、ほかでもないこの私が生まれてしまっている。ほんの少し何かが違えば、広大な宇宙の中の一つの惑星である「地球」は存在していなかったかもしれないし、私の先祖の誰かが1人でも早く死んでしまっていたら、私は存在していなかったかもしれない。いや、もっと脆かったであろう現在の存立、あのとき、あの先祖が、あの場所に行かず、あの人に出会っていなかったら、という無数の可能性、途方もない偶然性、そして、ここで「あの」と呼ばれている何かの存在それ自体の脆さ。明日、突然世界中のテレビがハイジャックされて「明日で地球サービスは終了します。よって、地球上に存在しているあらゆる存在は12時間後に消滅します」なんて放送が、宇宙人によって流されたっておかしくない。映画『トゥルーマン・ショー』のように、私を取り巻く全ては作り物かもしれない。全くもってめちゃくちゃだ。でも、めちゃくちゃなことの想定よりも、さらにめちゃくちゃなのがこの世界、この生なのかもしれない。それについてどうにか考え、無理しながらも言葉にしてみる。そうしたら、どうしても言葉は曖昧で、意味不明なものになってしまうかもしれない。それでも、なんとか語ってみる「手のひらサイズの哲学」。全てのことが論理的一貫性を持って語れるのか。世の中は、そういう論理、いわば「健やかな論理」を求めている。人類は、それに手が届くと信じてもいる。でも、もし世界そのものが病んでいるのだとしたら? そしたら、それを語れるのは「病んだ論理」の方なのでは? なんて、そんなことも考えてしまう始末。
私は本書の中で、永井さんの祈りに触れた。「わたしは祈る。どうか、考えるということが、まばゆく輝く主体の確立という目的だけへ向かいませんように。自己啓発本や、新自由主義が目指す、効率よく無駄なく生をこなしていく人間像への近道としてのみ、哲学が用いられませんように。それらが見せてくれる世界は、甘い甘い夢だ。いつか、その甘さはわたしたちを息苦しい湿度の中で窒息させる」(125頁)。皆が同じ方向へと邁進する社会。コスパ、タイパが志向され、無駄なものは排除されていく。ついには、その魔の手は人間という存在にも忍び寄る。その一方で、加速していく社会の中で、どうしてもその速度に追いつけない人たちというのもいる。皆がせかせかと働き、何か目的を持って行動しているような世の中で、そういう人たちは一々何かに引っかかっては、波に乗ることができないでいる。本書は、そういう人たちに寄り添う優しさを持った本でもある。そういう人たちと共に、世界をゆっくりと眺めまわしてくれる。こんなにもめちゃくちゃな世界を一緒に鑑賞して、「ヤバすぎない?」と嘆き合ってくれる。そして、共に頭を悩ませてくれる。
「衝撃的な他者性の告知こそが、哲学対話の醍醐味なんだと信じている」(241頁)。その「衝撃的な他者性の告知」によって、私は破壊される。新たな問いを抱えざるをえなくなる。しかし、それは決して不幸なことではない。むしろ、それは他者との出会いの証左であり、哲学であると私は言いたい。かつてメルロ=ポンティが言ったように、「哲学とはおのれ自身の端緒が更新されていく経験である」のならば、まさに「衝撃的な他者性の告知」は哲学のはじめにこそ置かれるべきものなのかもしれない。
本書の文字通り最後には、「このめちゃくちゃで美しい世界の中で、考えつづけるために、どうか、考えつづけましょう」と書かれている(265頁)。これが本書が最後に語った言葉である。これを読んだとき、わたしは「なんてめちゃくちゃな文章なんだ」と思ったと同時に、「なんてこの本らしく、素晴らしい文章なんだ」とも思ったのであった。考え続けるためには、問いを持ち続けなければならない。安住していても、新たな問いとは出会えない。対話へ、他者のもとへ、勇気を持って一歩を踏み出そう。ポケットに本を突っ込んで、街中に出かけよう。人類初の月面着陸を成し遂げた、あのアームストロング船長が言っていた言葉が頭に響く。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」。そんな励ましの声が、この本からも聞こえてくる。
ノーマン・マルコム, 板坂元.(1998).『ウィトゲンシュタイ 天才哲学者の思い出』, 平凡社, 70頁.
(平井 優作)
出版元:晶文社
(掲載日:2024-06-15)
タグ:哲学
カテゴリ その他
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