からだの日本文化
多田 道太郎
『しぐさの日本文化』や『複製芸術論』で知られる著者の「肩のこらない」からだにまつわる日本文化の話。 頭、顔、肩、背中、腹、ヘソ、ウエスト、ヒップ、腰、尻、足の11項目でまとめられている。
例えば、「少し具合の悪いところができると、日本人は何でも『からだ』のせいにする。カナダ人は『精神』のせいにする」(P.38)。だから、日本人は医者やマッサージ師に駆け込み、カナダ人は精神分析のクリニックに向かうと言う。「屁は尻に出て又鼻に逆戻り」というなかなか味わい(?)のある秀句も紹介されている。どこの国の人であろうと、この身体は同じようなもののはずだが、そこに文化が加わると、どうも同じようではない。鼻を高い、低いと日本語では表現するが、例のクレオパトラの鼻については、フランス語では「もしクレオパトラの鼻がもう少し短かったら」と表現されているとか。
しかし、どうしても私たちはこのからだに染みついた文化から離れることは難しい。それなら、他の文化ではどうかを知り、見方を変えてみるのも、からだによいかもしれない。軽く読めるが、う~んと考えるところは多い。
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:潮出版社
(掲載日:2002-06-15)
タグ:身体 文化
カテゴリ 身体
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目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか
伊藤 亜紗
ルールに縛られる
日本が史上最多のメダル数を獲得したリオ・オリンピックはずいぶん堪能させてもらった。水泳はもとよりレスリングやバドミントンでの勝ち方を見て、日本人の気質がずいぶん進化しているとまで思ってしまうほどだった。一緒に観戦を楽しんだ小学校3年生の息子は、さまざまな疑問や質問を投げかけてきた。どうして卓球台はあんなに狭いの? 試合時間がもうちょっと長かったら絶対勝ってたのに!
そんな素朴な問いかけに答えるうちに、今さらながら競技スポーツがルールにがんじがらめに縛られてることに強い違和感を感じてしまった。いや、もちろんルールの存在意義や重要性は重々承知している。規制が厳しいからこその競技であり、その制限の中でありとあらゆる方法を駆使して磨き上げられた技が心を震わせること も身をもって知っている。しかし、スポーツのルールなんてそもそも不公平なものだし、最近のスポーツは科学的という言葉を背景に、やるべきことやしてはいけないことが多過ぎるのではないか。もっと、おおらかでいいかげんな部分が残っていてもいいのに、とそんな風に感じてしまったのだ。
もちろん自分がトレーナーとして現場に出たなら、万全の準備のために当たり前にやるべきことのレベルをできる限り引き上げることに腐心するわけで、自分でも矛盾を自覚している。この感情が溢れてきたのは、自分がその場で折り合いのつくルールを決めながらそれでも結構ゆるい感じで工夫する子どもたちの「遊び」に、身近で浸りすぎたせいかもしれない。
スポーツの空間
さて本書では、視覚障害を持つアスリートの「世界の認識の仕方や身体の使い方」を選手へのインタビューを通じて解きほぐそうとする試みが描かれている。著者は美学と現代アートの専門家である伊藤亜紗さん。
冒頭部分でいきなり私の違和感をピタリと表現してくれた。「スポーツの空間はエントロピーが小さい空間である」と。そう「自由度が低い」のだ、スポーツというものは。本書にあるようにこれは決してネガティブなことではなく、「運動の自由度を下げることで、競争の活性化を高める」重要な特性である。そして視覚障害を持つアスリートにとっては、このエントロピーの小さいスポーツの空間というのは、日常生活よりもずっと「見えやすい」場所なのだと言う。その空間で自分たちの持つ能力をいかに高め活かすのか、障害者スポーツを観る目を開かせてくれる驚きが彼らの話から次々に飛び出してくる。
確かにオリンピックの熱が冷めやらないうちに始まったパラリンピックを観ていると、この人たちはどんな工夫を重ね、どんな想像力を持って何を創造しながらここにたどり着いたのだろうという興味はオリンピックより格段にたくさん湧いてくる。選手の競技に対する取り組みの濃度については比較できるものでなく双方極限の濃密さだろうが、 パラリンピック選手のほうがひとりひとりの特異性がより高く、エントロピーは相対的に大きいと言えるだろう。
オリンピックが「ドラゴンボール」的であるのに対して、パラリンピックは「ジョジョの奇妙な冒険」的とでも言えば伝わる人には伝わるのだろうか。多様なルールによって公平に近づけようとはしているが、それでもあからさまな不公平さが垣間見えるパラリンピックの中で、自分の持つ能力を創意工夫によって引き上げ、懸命に闘った選手の笑顔や涙を観ていると、本来のスポーツが持つ価値というものがより濃く感じられるのだ。
パラリンピックならではの価値を
本書で取り上げられている視覚障害者スポーツを捉える著者の聡明さは此処彼処で強く感銘を受けるのだが、インタビュアーとしては少し押しが強いとも感じた。そこはあなたの言葉でそんなに綺麗にまとめないで欲しかったと感じる箇所が散見されたからだ。同じ競技のアスリートを数名集めた座談会 の形で司会進行に回ったほうが、もっと生の感覚を生の言葉で引き出せたようにも思う。
障害者スポーツを支える多くのサポートスタッフもどれだけの試行錯誤を繰り返し、自分の関わり方を推し量るのだろうか。そんな中、リオ・パラリンピック日本選手団の成績について日本パラリンピック委員会(JPC)会長が「金がゼロなのは予想外。周囲の期待に応えられず残念」と語った。東京オリンピックを睨んでさまざまな思惑があるのだろうし、選手たちはトップアスリートとして金メダルを獲るために日々戦っているのだろうが、できるならメダル数よりそんな選手やサポートスタッフを讃えて、パラリンピックならではの価値を発信してもらいたいと思う。わざとらしい美談につくり上げるまでもなく、多くの驚きがそこにあるだろうから。
オリンピックスポーツであろうがパラリンピックスポーツであろうが、どの選手も同じアスリートとして同様に尊重すべき対象であることに違いはないが、それでもオリンピックとパラリンピックの立ち位置は違っていいように思う。より多くの人の「ポジティブ・スイッチ」を押せるのは、メダルの数では測りきれないのだから。
(山根 太治)
出版元:潮出版社
(掲載日:2016-11-10)
タグ:視覚
カテゴリ 身体
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