多田富雄詩集 寛容
多田 富雄
優しさに満ちた文章
本書の著者、多田富雄は国際的な免疫学者である。しかし活動は一科学者の枠にとどまらず、さまざまな分野での執筆活動のほか、能への造詣深く、いくつもの新作を編み出したりもしている。2001年、旅先で脳梗塞を起こし、一命を取り留めるも重度の右半身マヒと摂食・言語障害の後遺症を持つ身となる。以来、2010年に亡くなるまでの間に物した全ての詩を集成したものである。
この間、ほかにも『落葉隻語ことばのかたみ』(青土社)、『残夢整理昭和の青春』(新潮社)などなど、単著共著を含め何冊もの書籍を出版している。それ以前にももちろん多くの書籍がものされているが、いずれもその風貌よろしく紳士的で優しさに満ち、感情を極力抑えた文章で貫かれている。
悟りではない
しかし、この「寛容」の文だけが他のものと全然違っているのである。免疫学者としてずっと“いのち”を見つめてきた著者の、“死”に直面し、そのことを思わぬ日はない生活の中で書かれた詩集だから、きっと“悟り”の境地からの言葉が紡がれているのだろうと興味津々で読み始めたら、いきなりカウンターパンチをくらった。
死ぬことなんか容易い
生きたままこれを見なければならぬ
よく見ておけ
地獄はここだ
(「歌占」2002より)
なんだか、やたら烈しいのだ。「寛容」という書名、あるいは“免疫寛容”という言葉と関連づけても、およそ連想できないような強い口調で書かれていて面食らってしまった。“悟り”どころか、生に対する執着、自由がきかないことへの不満やイライラがぶちまけられているように思え、何とも言えない、胸にザラつく読後感を覚えたものだ。あの優しい風貌、文体にあって、実は鬼のような人だったのかなどと思ったりもした。
超越といっても何を超えるのか
聖というも非人の証し
下人も超越者も変わりない
生者は死者を区別するが
生きるも死ぬも違いはない
空なるものは求めても得られない
そうつぶやくと精神が蓮華のように匂った
背中に取り付いた影は飛び去った
(「卒都婆小町」2004より)
くじけそうになりながらも読み進めるうちに、上記のような一節が出てきた。もしやと思ったが、結局最後まで、“死”に対して烈しく挑みかかり、まるで強いアレルギー反応を起こしているようだった。
死への礼儀は生きること
悔しいので何度も読み返してみたら、ヒントはほんの初めのほう(2編目)にあった。
未来は過去の映った鏡だ
過去とは未来の記憶に過ぎない
そしてこの宇宙とは
おれが引き当てた運命なのだ
(「新しい赦しの国」2002より)
“死”を受け入れることが“悟り”だと思っていた私が甘かった。いまある“生”を精一杯生きることこそ、実は“死”を受け入れることであり、それこそが“死”に対する礼儀なのではないか。そう思って全編読み直してみたら、やっと著者の意図するところがわかったような気がした。
“からだ”を見つめることは究極的には“いのち”を見つめることである。などと、日頃学生を前にしたり顔でしゃべっている自分を戒め、反省しなければ、と思った。
なお、免疫寛容とは、自己あるいは、ある条件下での非自己(抗原)に対して、免疫反応が起こらないこと、また、その状態のことを指す。
(板井 美浩)
出版元:藤原書店
(掲載日:2011-08-10)
タグ:詩 死生観
カテゴリ 人生
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