一流選手の動きはなぜ美しいのか からだの動きを科学する
小田 伸午
久しぶりに良書に出会えた気がする。
目次を読み進め、さらに、はしがきに入るとこの本のエッセンスをしっかり詰め込んだ文章が非常にわかりやすく記載されており、ここだけで期待が高まる本である。本の内容自体は、このはしがきにも背表紙の要約文からもすぐにわかるので、少し違った目線で紹介をしておきたい。
この本のテーマは“一流選手の動きの美しさの秘密は何か”というものだ。一流選手の動きというのは、たとえそれが、バレエやダンス、フィギュアスケートのような芸術系スポーツでなくても美しいと思える場面がある。そこには洗練された動きというものがあるが、その洗練された動きは現代のスポーツ科学が寄与していることは間違いない。“より速く”“より強く”というのは科学に支えられている一面もあるが、その裏には美しさというものも備えている。その表裏は、科学と選手の実践感覚という対極から生まれることを知らしめてくれる。その両方が生かされたときに美しさが生まれる。「科学と実践の往復の景色はすばらしく科学を無視するのではなく感覚で活かす。そんな素敵な哲学を一流選手の動作がそっと教えてくれる」と著者も表現している。
第一章では科学の主観と実践での客観のずれに焦点を合わせている。どちらが正しいという話ではなく、両方を行き来していくことで選手自身は成長をしていく。その成長こそがスポーツの持つ価値であることにも気づかされ、またこれが内面の美しさにもつながっていくというもの。
第二章に移ると、実際の選手の動き、外面からの動作の美しさに触れている。選手は自分の持つ力以外に地球環境というものを利用して美しさを形成していることが示される。自分の力と地球環境の持つ力という、考えてもみたことがないような対極の力を膝抜きという実践で紹介され、読み進めるとまさに腑に落ちる感覚を覚えた。
最終章は、スポーツと日常生活という、これまた対極の関係での身体の使い方に焦点を当てている。関節の正反対の動き、右と左、内と外のようにこれもどちらが正しい動きという見方ではなく、それぞれの持つ性質をみること、そこに主観と客観を組み合わせることで動作に美しさが伴ってくることがわかる。またその美しさはなにも選手という特別な人に与えられるのではなく、ごくごく日常の動作の中にもあるもので、身体の姿勢や、心の姿勢、つまりは生きる姿勢ということにつながる。生きるということの中にある美しさに気づく。一流選手の動きの美しさの根源は実際には日常の中にある。美しさはスポーツ選手だけの特権でもなく、「美き(よき)人生に重なっていく」という著者の言葉に、一流選手の美しさに魅了される理由がわかった気がした。
(藤田 のぞみ)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2014-11-18)
タグ:一流選手 動作 美しさ
カテゴリ 身体
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からだの動きを科学する 一流選手の動きはなぜ美しいのか
小田 伸午
研究・大学教育に長く携わる中で、スポーツ科学とスポーツ実践という「二つの真実」があると気付いたと著者は言う。研究から得られた理論と、定量的に表しにくい感覚とを、どちらかに偏ることなく、双方を生かす。それをうまく行っているのが一流選手だという。これを、スプリントや相撲など、豊富な例を用いて解説している。とくに、床反力など外力を生かす力の「抜き」と、関節を正しい位置に置く姿勢とが本書におけるポイントになるが、これを自然に実践しているのが子どもや動物なのだそうだ。
研究知見をどのように現場に生かすか、選手の感覚をどのようにトレーニングに結びつけるかといったヒントが詰まっている。
(月刊トレーニング・ジャーナル編集部)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2012-06-10)
タグ:動き
カテゴリ 運動実践
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ヘンな論文
サンキュータツオ
研究、研究者への愛
著者はお笑い芸人でありながら大学の非常勤講師も務め、さらにはアニメオタクでもある。そんな著者の趣味の一つである珍論文コレクションの中から、13本の論文を紹介しているのだが、本書の目的は内容について言及することではない。学問とは、研究とは、いかなるものなのかについて熱く語るための本である。本書全体から学問や研究、またそれに情熱を傾ける研究者への愛が感じられる。
タイトルの「ヘン」以外にも、「ヒマなのか?」とか「どうでもいいことすぎる!」というような、どちらかというと失礼な部類の言葉を芸人さんらしい軽妙な文章に織り交ぜているのだが、それが全然不快ではないのは、愛情を感じるからである。
学者とは
学問とは「問いに学ぶ」ことである。だから、「問いをたてる」ことがまず大切だ。それが役に立とうが立つまいが。「やりたいこと」「知りたいこと」がまずあって、それにもっともらしい理由を後付けするなんとも愛らしい人種、それが学者である。
本書で紹介されている論文はどれも面白そうだが、中でも僕が好きなのは「『コーヒーカップ』の音の科学」である。「コーヒーカップにインスタントコーヒーの粉末を入れ、お湯を入れてスプーンでかき混ぜると、スプーンとコップのぶつかる音が、徐々に高くなっていく」ことに気付いた女子高校生と物理の先生がその謎を究明していくのである。
まず、音が高くなっているのは気のせいでは? という当然の疑問に対し、何をしたかというと、コーヒーカップとスプーンの接触音を録音してパソコンに取り込み、その周波数特性を測定したのである。その結果、気のせいではなく本当に音が高くなっていることが確認されたのである。また、それはインスタントコーヒーは関係なくカップがお湯で温められたことが原因では? という可能性もきちんと実験により、そうではないことを実証している。
そこから研究を進め、様々なものをひたすらコーヒーカップに入れスプーンでかき混ぜ、ついにあることをつきとめるのだ。詳しい内容は本書を読んでいただきたいが、私が魅かれたのは、立てた問いに対し愚直に向き合う、その清々しいまでの姿勢である。考えられる可能性を一つ一つ丁寧に検証してゆき、結論にたどり着く。それが「だから何?」と言われそうなことであろうと何だろうと、お構いなしに。
研究の面白さ
著者は言う。「美しい夕景を見たとき、それを絵に描く人もいれば、文章に書く人もいるし、歌で感動を表現する人がいる。しかし、そういう人たちのなかに、その景色の美しさの理由を知りたくて、色素を解析したり構図の配置を計算したり、空気と気温を計る人がいる。それが研究する、ということである。だから、研究論文は、絵画や作家や歌手と並列の、アウトプットされた『表現』でもある」
先ほどのコーヒーカップの音の研究も、それがわかったからと言って世の中が変わるものではない。だがそれを、不思議だと思うことを解き明かしてみたいという純粋な気持ちの表現だとすれば、これほど楽しい読み物はないとも言える。
自分のことを振り返ってみると、論文といわれるものを書いたのは大学の卒業論文だけである。しかし確かに、そのときは楽しかったと思う。先行研究や本を読み漁り、実験をし、考え、の繰り返し。そこで味わった楽しさは、その後の自分のベースにもなっていると思う。
その途中こそが最も楽しいということを知ってしまったので、締切の迫っている仕事でも、あえてわき道にそれてしまったりして時間が足りなくなってしまうこともしばしばある。「問いに学ぶ」という姿勢は、人生を豊かにしてくれると思う。今後私が何かの論文を書くなんてことは、まずないだろうが、知りたいことにまっすぐ向き合うという楽しさは、論文を書かずとも味わえるはずだ。
「なに、この、人生アウェーな感じ!」といわれるような「ヘン」な人に、私もなりたい。
(尾原 陽介)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2015-12-10)
タグ:研究
カテゴリ その他
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語りきれないこと 危機と傷みの哲学
鷲田 清一
東日本大震災のことを主題として、語ること、聞くこと、待つこと、の重要性を指摘する。それはとくに有事の際、危機的状況の中で、より際立つのだという。
なにかしてあげたい、そう誰しもが思う。しかし、悲しみや絶望の渦中にあるひと、底知れぬ闇を抱えたひとに、なにができるだろう。よかれと思ってすることが、裏目に出てしまうことも、ケアの現場では多いのではないかと思う。反面、ただ一緒に居てくれるだけで、救われることもある。
かつてイヴァン・イリイチは、ケアのプロのことを「ディスエイブリング・プロフェッショナルズ」と呼んだ。ケアのプロから提供される高度なサービスと反比例するように、市民一人ひとりが、命の世話をする力を失っていくさまを、揶揄した言葉だ。
医療や教育の現場を、ビジネスの指標で測るといけないのは、この「間」をこそ、もっとも大事にしなければいけないからではないだろうか。余白を埋めるような効率化の概念が塗りつぶしてしまう、いきいきとした生。イリイチが脱学校、脱病院と言ったのもその意味だったように思う。
とはいえ、いろいろなものに依存しなければ生きていけないのが現実だ。著者は、相互に支え合う関係(インターディペンデンス)を他者と築くことを勧める。抱え込むことなく、押し付けあうでもない、持ちつ持たれつの関係性といえばいいのだろうか。
前提として、お互いのことをある程度わかっていること、さらに損得を基準にしないこと、などは含まれるのだろうと思う。
(塩﨑 由規)
出版元:角川学芸出版
(掲載日:2023-02-07)
タグ:哲学 ケア
カテゴリ その他
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