ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
ヒート
堂場 瞬一
私の人生に影響を
自分の考え方、大げさに言えば自分の人生に影響を与えた本は? と問われたら何を挙げるだろうか。何かにつけ影響を受けやすい私は、どれを挙げればよいか迷ってしまうほどたくさんある。『北の海』(井上靖)、『燃えよ剣』(司馬遼太郎)、『永遠のセラティ』(山西哲郎・高部雨市)、『ブラックバッス』(赤星鉄馬)、『マネー・ボール』(マイケル・ルイス)、『水滸伝』(北方謙三)、『のぼうの城』(和田竜)などなど。そこに、もしかして本書『ヒート』も加わるかもしれないと感じている。こういうことは後になってわかることなのだから、今はまだ「かもしれない」段階なのだが。
本書はベストセラーとなった「チーム」で異彩を放ったオレ様ランナー・山城悟をキーマンとして、男子マラソン世界最高記録の樹立を目指す物語である。
世界最高記録を狙える大会として、神奈川県知事の鶴の一声で新設されることになった「東海道マラソン」。日本マラソン界の至宝と言われる山城悟に世界最高記録を「出させる」ため、元箱根駅伝ランナーの行政マン音無太志は県知事の特命を受け、超高速コースを設定し、日本人による世界最高記録の樹立をお膳立てしようとする。そして30kmまでならトップレベルの甲本剛にラビットとして白羽の矢を立てる。この3人がそれぞれの矛盾を抱えながら、奇跡の42.195kmに挑むというストーリーだ。
現在の男子マラソン世界最高記録は、ケニアのパトリック・マカウの持つ2時間3分38秒。1km2分55秒ペースで走ればフルマラソンは2時間3分4秒。計算上は世界最高記録である。もしそれが実現できたら、とんでもない記録が生まれる。もちろん「机上の空論」である。山城も「そんなに簡単に計算できるなら、苦労はしない」とにべもない。それでも、企画担当者の音無は「机上の空論」を現実のものにするため、次々と対策を講じてゆく。しかし、本番ではそんな計算を全てふっ飛ばしてしまうような、まさしく「HEAT」が繰り広げられる。
なぜ私は本書に惹かれるのだろうか。まず、山城の意外な純粋さ。傲慢で、自分の身近にいたら大変困る奴だが、走ることに対しての純粋な気持ちには心を打たれる。そしてもう1つは、登場人物たちが抱えているさまざまな、決して解消されない矛盾。私という人間が元来ヒネクレているのかもしれないが、そういうのが好きなのである。
山城は言う。「客寄せパンダはごめんですよ」。
「走りもしないで応援だけしている連中の心境がどうしても理解できない」山城は、沿道の観客を「本当はこちらを『見世物』として見下しているのではないか」と断じる。だが、「沿道の観客」の一人である私はこう思う。実業団チームに所属している山城は、その時点で客寄せパンダであり、だからこそ給料をもらっているのではないのだろうか、と。それは甲本も同じである。現役マラソンランナーでありながら、金のためにペースメーカーを引き受けるが、常にそういう状況を後ろめたく感じ、「ブロイラーの気持ちがわかるような気がした」と自嘲している。本当はどこかの実業団チームから誘いを受け、マラソンランナーとしてもう一度勝負したいのだ。しかし、実業団で走るということは金のために走るということにほかならないのではないのか?
そういえば、冒頭に列挙した私の人生に影響を与えたと思われる本も、さまざまな矛盾をはらんでいるものばかりである。読むたびに、違った角度から物事を考えさせられ、刺激を受ける。
現実をもとに生まれる熱
本書からも多くの矛盾や疑問が投げかけられてくる。ペースメーカー、人為的要素満載の高速コース、スポーツと金、スポーツを利用しようとする政治家…。これらにモヤモヤした感じを常に抱きながらも、ストーリーに引き込まれて一気に読破してしまった。
本書は小説である。フィクション、つまりつくり話である。「あり得ない」と一笑に付してしまう人もいるだろう。だが、それならば、『燃えよ剣』の土方歳三も『のぼうの城』の成田長親も実在の人物ではあるが、ストーリーは脚色を加えたつくり話である。『水滸伝』の豹子頭林冲や青面獣楊志などの登場人物に至っては実在したかすら疑わしい。しかし、人々の心をとらえ続けて離さない。事実かどうかはさして重要ではない。現実をデフォルメしたリアルなフィクションが一番面白い、と思う。本書はまさにそんな一冊ではないだろうか。
(尾原 陽介)
カテゴリ:フィクション
タグ:マラソン
出版元:実業之日本社
掲載日:2012-06-10