ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
ルーズヴェルト・ゲーム
池井戸 潤
企業チームの存在意義
中堅電子部品メーカーの青島製作所は、折からの不況と金融恐慌に端を発した経営不振に対応するため、リストラを断行しようとする。それはノンプロ野球部も例外ではない。かつて名門と呼ばれたが、今では完全に会社のお荷物チーム。会社は危機を乗り越えられるか?
野球部は廃止か、存続か?100人規模のリストラを断行しようとしているのに、年間3億円の経費がかかる野球部をなぜ存続させるのか。リストラの対象となった社員にはとても納得のいくものではない。たとえどんなに勤務成績や態度が悪くても、午前中しか仕事をしていない野球部員よりは会社に貢献しているはずだ。私が青島製作所の社員だったとしても、リストラよりも野球部廃止が先だと考えると思う。当の野球部員は、「会社の活性化」とか「広告塔」という言葉にすがり、とにかくよい成績さえ残せば何とかなるのではないかと考えているのだが、それが何だか浮いているように感じられてしまう。会社内には、廃止意見ばかりでなく存続を望む声もあるのだが、存続させる意義を最後まで明確に打ち出せない。
本書を「逆転を信じてあきらめずに最後まで戦い抜く人たちの物語」として読めば、ラストは「よかったよかった」で読み終われると思う。しかし、野球部にとっては、なんの解決にもなっていない結末でもある。新たなパトロンを見つけてラッキーというだけで、そのパトロンも代替わりをしたりすれば結局また、同じことが起こりうる。
プロスポーツチームが行う本当の地域貢献とは
プロランナーの為末大さんが、著書「インベストメントハードラー」(講談社)でこんなことを書いている。「誰が私の何に対価を支払っているのかを常に考えるようになりました。(中略)スポーツは、必ず必要というものではありません。なくなっても生活がままならなくなることはない。けれども、スポーツは世の中から必要とされていて、スポーツ選手という職業が存在しています」。また、クリエイターの糸井重里さんも同じようなことを言っている。「クリエイティブの仕事は、必要のないものだけど、欲しがられるものだとぼくは思っている」。
私の住んでいる富山県には3つのプロスポーツチームが存在する。サッカーJ2「カターレ富山」、野球独立リーグ「富山サンダーバーズ」、バスケットボールbjリーグ「富山グラウジーズ」である。それぞれが地域貢献を掲げ、本業のプレー以外にもさまざまな活動を展開しているが、首をかしげたくなるものも多い。海岸清掃のボランティアや交通安全キャンペーンのチラシ配りである。そういうことをしてほしくて行政や地域や個人が支援しているわけではないだろうに、と思ってしまう。チームは、誰が何に対して対価を払ったり支援したりしているのか、プロスポーツチームが行う本当の地域貢献とは何か、ということをもっと真剣に考えてはどうだろうか。
手段以上の「何か」としてのスポーツ
これ以上書くとどこからか叱られそうなので、話を元に戻す。スポーツにお金をかける意義って何だろう。
スポーツが何かの手段として扱われるようになって久しい。子供がスポーツをすることは学業成績やコミュニケーション能力に好影響を与えるとか、メタボの予防や改善にスポーツをしましょうとか、そういった文脈で語られることが増えてきた。スポーツを単なる手段としかとらえていない人は、その成果に対して対価を払う。もっと安価で効率的な手段が見つかればさっさとそちらに乗り換えてしまうだろう。
では、私たちのようなスポーツを手段以上の何かと思っている人たちは、何に対して対価を払っているのだろうか。それは、上手く言えないが「スポーツそのもの」ではないだろうか。スポーツは「必要はないけど、欲しがられるもの」というよりも、「捨てられないもの」なのだと思う。何度整理整頓しても、捨てられなくて手元に残ってしまうものが誰にでもあるだろう。たとえば子供が小さい頃に書いてくれた似顔絵や、父の日にくれた手づくりの贈り物。スポーツはそれに近いのではないか、と思う。
役に立つとか立たないとか、必要か不要かではなく、スポーツそのものを楽しみたいし、子供たちにもそう伝えていきたい。ただこれではやはり、スポーツにお金をかける意義について、うやむやなままなのだが……。
(尾原 陽介)
カテゴリ:フィクション
タグ:野球
出版元: 講談社
掲載日:2012-08-10