ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
言葉はいかに人を欺くか 嘘、ミスリード、犬笛を読み解く
Jennifer Mather Saul 小野 純一
Jennifer Mather Saul、小野 純一『言葉はいかに人を欺くか 嘘、ミスリード、犬笛を読み解く』(慶應義塾大学出版会)
井筒 俊彦、安藤 礼二、小野 純一『言語と呪術 井筒俊彦英文著作翻訳コレクション』(慶應義塾大学出版会)
人を欺く言葉
今回は2冊紹介したい。
まず、『言葉はいかに人を欺くか』。「噓」「ミスリード」「犬笛」をキーワードとして「言われていること」に対して人はどのような過程を踏んで理解するのか、過去の「政治家」の発言をもとにして、そもそも論(哲学)的解明を試みたものである。
人は誰しも「嘘」をつくことはいけないと教育されて育つ。ところが政治家の中には「嘘」ではないが本当のことでもないことを言い、「ミスリード」することで他人を本来の導きとは異なる方向に誘導する人がいるようである。
一方で、政治家に限らず人は日常的な会話の中で意識的and/or 無意識的に「ミスリード」する必要に駆られることもあるらしい。
たとえばこんな場合だ。「ある老婦人が死の間際に自分の息子が元気か知りたがっている」。「あなたは昨日、彼に会ったが(その時点で彼は元気で幸せそうだった)、その直後にトラックにはねられて死んだことを知っている」。さて、あなたはどうする?
①「彼は幸せで元気そうにしています」
②「昨日会った時、彼は幸せで元気そうでしたよ」
①では「嘘」をつくことになってしまう。したがって多くの人は、②と答える方が(「ミスリード」ではあるが)「善い」と考えることだろう。
人が幸せになる「嘘」や「ミスリード」(少なくとも欺いたり不幸にしたりしない)ならいいじゃないかとも思うが、本書では善悪や正義といった「道徳」や「倫理」は置いておいて考察は進められていく。「嘘」と「ミスリード」の区別について人は「直観的」にわかるものらしいが、議論をきちんと進めるためには言葉を定義しておく必要がある。
そのため「嘘をつくこと」の定義を導き出すために、まずは素朴な原案がつくられる。しかし吟味するとそこに矛盾が生じる。何かを加えるとうまく説明できたように見えるもまた新たに矛盾を生み、余計なところを削ったら解決した、と思ったら、という具合で実に8回に及ぶ見直しを経て(第一章すべてを費やして)ひとまず「定義」としての結論に至っている。かわいい装丁に欺かれてはいけない。これは相当ややこしそうな書籍だ。
やはり“スポーツ”であれ「言葉」のことであれ、「直観的」感覚を言い表すことは難しいのだ。無理やりにでもこんなアナロジーを導き出せば、少しはこちらのフィールドに引き込めるのではないかと、自らの読解力の弱さを慰めつつ手ごわい本書を読み進めてみることにした。
「犬笛」とは「アメリカの政治ジャーナリズムで誕生した」用語だ。文字通り、犬が人間には聞こえないような周波数の音を聞き分けることができることから転じ、一般的な言葉の中に、ある特定の人にだけ届く特異なメッセージを載せ、「政治家(または、そのアドバイザー)によって、大衆の大部分に気づかれないように設計された故意の人心操作」を狙う物騒な行為のことを指す。
物騒な話はあまり得意ではないので、これはもしかして、子どもの頃に唄っていた歌(小学校の校歌とか)の意味が大人になったらわかるようになり、数十年の時を経て詩に込められたメッセージが心に届いた、とかいうのと同じことか。と、ここでまた小欄の脳内景色はこちらの平和なフィールドに跳ぶ。
小欄は小学 5 年生のとき遊びでやった棒高跳が面白く、以来ウン十年こよなくそれを愛する者だが、街中でキャリアに長い棒状のものを積んだ自動車を見かけると、いまだに胸がドキドキとときめく。これもある種の「犬笛」か(政治的な意味も意義もないメッセージだが)。あるいは逆に、子どもの頃あれほど感動していた絵本を見てもさっぱり泣けてこない。こんなことがあると、「犬笛」にはそれが届く年齢というものがあって、物事はやはり時期をとらえることが大切ということか。などと脱線ばかりしてなかなか読了できないのである。
言語の力を解き明かす
2冊目は、『言語と呪術』。「言語は、論理(ロジック)であるとともに呪術(マジック)である」とあるとおり、言葉には「意味を伝達する」という機能だけでなく、情動を喚起する何かもともに伝えるという力がある。これを解き明かそうとして編まれた全 7 巻のシリーズの一冊だ。著者は日本人(井筒俊彦)だが、英文著作の翻訳本である。
今回紹介するこの2冊は、実は同じ訳者(小野純一)の手になるものだ。異質に見える2冊であるが、言葉の意味はどうやって成り立っているのかという点で両者に同じルーツを感じたとの由。
翻訳作業の中で生じたという小野の想いが興味深い。「活字に触れるようになって折りあるごとに、また勉学や研究のために、井筒俊彦の著作、そして彼の意味論に色々な形で向かうことはあったが、今回ほど濃密な取り組みはなかった。それはこの類稀な人物との対話に留まらず、その思索を辿る道行きでもあった。手渡された原著という地図を見ながら原著者の見た風景を追走しつつも、同じ旅程を経るというより、実地調査して復元し立体化してゆく行為に似ていた」と訳者あとがきにある。
時空を超越した対話
実際の対面でない出会い(しかも井筒は故人である)の中に「濃密」な「対話」を紡ぎ出す言葉(文字)の力と、それに融合しようとする小野の姿が、ホログラムのようにここに浮かび上がる気がするのである。
この情景は、小欄のテーマでもある体育・スポーツで交わされるノンバーバル(非言語)コミュニケーションの対岸にあるようでいて、その実は不離一体のものと直観され至極心地がよいのである。
(板井 美浩)
カテゴリ:その他
タグ:対話 言語
出版元:慶應義塾大学出版会
掲載日:2021-10-10