ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
スタジアムの戦後史
阿部 珠樹
カクテル光線
誰がネーミングしたのだろうか。このまことに素敵な響きを持つ言葉を耳にすると、必ずといってよいほど私はある空間へと引きずり込まれていく。私の父は決して野球好きのほうではなかったが、小学生の頃私を何回か野球場へ連れて行ってくれた。今でも忘れない。初めて後楽園球場に連れて行ってもらったときのことである。確かオールスター戦だったと思う。父の後について球場のスタンド裏手の通路を歩き、自分の席に最も近い階段を上ってスタンドに出たときのことである。私は強烈で真っ白な、そして妙に暖かな光線に全身を包まれてしまい、一瞬目が眩んでしまったのである。それ以来、「目が眩む」という表現に出会うと、私の頭脳はこのときの情景を再現するようになった。初夏の、涼やかな、そしてまだ青みを僅かに残した空を背景に輝くこのカクテル光線の群れは、私が父と過ごした幸せな思い出とセットとなって、今でも私の中に大切に保存されている。
「1937年(昭和12年)に完成し、1987年(昭和62年)まで、本家後楽園の隣でプロ野球のホームグランドとして観客を集めた後楽園球場は、日本を代表するスタジアムだった」。こんな話から始まる本書だが、主役は決してスタジアムそのものではない。「最初は主だったスタジアムの来歴とそこで演じられた試合中心に話を進めるつもりだったが、調べてゆくうちに、選手や試合よりも、スタジアムを作った人物、そこを訪れた人々、そしてスタジアムの栄枯盛衰と時代の空気とのかかわりのほうに関心が移り、そうした話が中心になった」と“あとがき”にもあるように、本書は後楽園球場と正力松太郎、両国国技館と春日野理事長、東京スタジアムと“永田ラッパ”で名を馳せた永田雅一など、いわゆるスタジアム建設の立役者とその時代が主役なのである。
伝統と国際化の相克
1964年(昭和39年)10月10日に開幕した東京オリンピックは、日本の戦後の完全復興と国際社会への仲間入りを世界にアピールする役目を担って開催されたといっても過言ではない。そして、この大会で初めて種目に採用されたのが柔道である。「敗戦後、占領軍によって学校教育での実施が禁じられた武道(柔道、剣道、なぎなた、弓道)だが、徐々にその禁も解かれ、1950年代後半には中学、高校での科目にも取り入れられるようになった。こうした武道復興の動きの一方、1964年のオリンピックの東京開催が決まり、スポーツへの注目度が高まる。この二つの流れを受ける形で『武道の大殿堂』建設の声が国会議員の間で高まった」結果、現在の武道館建設が実現する。ところで、この武道館という建物は建築家山田 守の作品で「正八角形の床面に八面の屋根を持つ屋内競技場としては珍しい形状で、屋根の頂点には金色の義宝珠(ぎぼし)が置かれるユニークなもの」であるが、この武道館建設には東海大学創立者松前重義が大いに采配を振るったという。「富士の裾野を連想させるゆったりした流動美」を持つこの純日本的建物に、松前は「日本的テイストに彩られた山田の設計案のなかに、国際的にも通用する普遍性を見て」とり、彼が柔道の未来のためにぜひ必要と考えていた伝統的性格と近代的、国際的性格を合わせ持つスポーツへ移行させる考え方と合致すると踏んだようだ。まさに伝統と国際化の相克が、見事に武道館建設によって昇華されたわけである。
スタジアムの建設というものが始まったのは紀元前450年頃らしい。この古代ギリシャの1単位であったスタジオン(約180m)の競争路を持っていたことを語源とする建物は、以来、古今東西で数多くの人間ドラマを生んできたに違いない。本書もこうしたスポーツのハードウエアーとも言うべきスタジアムの建設をわが国で画策し、人生を賭した人々をテーマに据えている。そこには、カクテル光線に包まれたグラウンド上にはない人間ドラマがあることを、別の意味でのスポーツの魅力をわれわれに教示してくれているように思えてならない。
(久米 秀作)
カテゴリ:その他
タグ:スタジアム 歴史
出版元:平凡社
掲載日:2006-01-10