ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
瀬古利彦 マラソンの真髄
瀬古 利彦
「君なら世界一になれる」
「瀬古、マラソンをやれ。君なら世界一になれる」「ハイ」
この会話は、後に瀬古の師となる中村清との初対面の場で交わされたものだ。漫画のようだが、これを機にマラソン選手としての瀬古利彦が誕生した。漫画といえば、そもそも瀬古が走り始めたのも中学時代に見た「巨人の星」で飛雄馬の父ちゃんが「ピッチャーは走れなければ駄目だ。地道に努力しろ」と言ったのを信じたのが始まりらしい。一見、些細な会話の中に人生を大きく展開させるキッカケが含まれている。
ところで、当時はインターハイチャンピオンでも大学浪人するのが珍しくない時代だった。1974年、福岡インターハイで中距離(800m、1500m)2冠しかも2連覇という瀬古でさえ、その例外ではなかった。浪人中、アメリカに陸上留学をするが「練習を指導してくれる先生がいて、言われた通りに練習をこなしさえすれば、大きな舞台で結果を残すことができた」順風満帆な高校時代と違い、「信頼できる指導者」のいない留学先での生活は「思い出したくもないほどつらい毎日」へと一変する。そして「何を信じたらいいのかわからず、(中略)走ることがつらくて、つらくて、たまらなく」なってしまったという。
失意の中で帰国し、二度目の受験で早稲田大学に入学を決めた瀬古が、大学でも中距離で頑張ろうと思いつつ、競走部の合宿に参加した初日に冒頭のような会話がなされた。人生にリセットは利かないが、リスタートなら何度もあり得るのだ。
マラソン選手としての瀬古の活躍は多くの人が知るところだろう。本書には、それを支えた練習や、幻に終わったモスクワオリンピック代表から立ち直る過程、ケガからの再起、などなどについて詳細に語られている。「瀬古利彦の百カ条」と、当時の練習メニューまでついた豪華版だ。
どう読むか
この「走りの哲学」書をどういう気持ちで読んだらよいのか? これが問題だ。まず、書評するつもりで読んでみる。すぐに挫折した。本が付箋紙だらけマーカーだらけになってしまった。
次に現役のマラソン選手になったつもりで読んだ。瞬時に挫折した。競技に対する真剣さが違いすぎる。
今度はミーハー親父(死語かも?)となって読んだ。これなら読了できるかもしれない。40歳代以降の人にはたまらなく懐かしい面々が現役選手として登場してくるのだ。また、現在では当たり前になっているが当時はまだ導入されていないか珍しかった事柄もたくさん出てくる。マラソンレースにおけるペースメーカーの存在などはよい例だろう。他にも、アスレティックトレーナーやストレッチングという概念も草創期であり、皆手探りで実施していたし、スポーツドリンクに至っては運動中に水を飲むなど根性がないからだ、という極端な反感の態度を表す者も当時はいた。ストップウォッチも、ラップ計測機能がついたものはほとんどなく、腕時計タイプのものなど夢のまた夢のような時代だった。
しかし、その分「時計に頼らず、体内時計を研ぎ澄まし、ペース感覚を磨く」ことができる時代でもあった。科学的知識の浸透や便利な機能の開発はよいことだが、利用する主体である選手の知恵のほうが重要であることに、今も昔も変わりがない。
人生読本として
マラソンを人生にたとえることがあるが、マラソン選手の人生が書かれた本書は、人生読本としてそのまま十分に使える。たとえば「報われないケガはない。人間は駄目だと思ったときが始まりであり、乗り越えられない壁は与えられない」という一節の「ケガ」を“挫折”や“試練”に置き換えてみるとすぐわかる。
本書は人によっていかようにも読める内容だが、現代のマラソン選手や長距離選手に、早くオレたちを乗り越えろ、という厳しくも温かい愛情が最も大きなメッセージとして込められている。そして瀬古自身が新しい何かにリスタートをする決心が込められている一冊なのではないかと思う。
(板井 美浩)
カテゴリ:指導
タグ:マラソン
出版元:ベースボール・マガジン社
掲載日:2007-04-10