ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 奇跡の教室 伝説の灘校国語教師・橋本武の流儀
伊藤 氏貴
型破りな授業
かつて私立灘高校において、型破りな国語の授業が展開されていた。エチ先生こと橋本武氏が担当する学級では、小説「銀の匙」(中勘助著)を 3 年間かけてじっくり読み、その世界を追体験するのである。それは「なんとなくわかったで済まさない」という徹底したもので、主人公が近所の駄菓子屋に行く場面では、生徒たちに小説と同じ駄菓子が配られたり、凧上げのシーンでは実際に凧を作って校庭であげたり、小説中の「丑紅」の言葉で立ち止まって十干十二支や二十四節気の話に脱線したり、といった具合なのである。そして、その授業ではいつも、ナビゲーターとして、エチ先生が工夫を凝らした手づくりのプリントが配られていた。
本書を読み終え、すごいなぁと感動すると同時に、ある違和感を感じた。本書の帯にこう記されている。
「文庫本1冊×3年間=東大合格日本一」
「21世紀に成功するための勉強方『スロウ・リーディング』の極意に迫る」
これが本書の内容を的確に紹介しているとは、とても思えない。本書で紹介されているデータでは、エチ先生の「銀の匙」の授業を受けたことをきっかけに、生徒たちは東大や京大の合格者数を急増させ、灘高を一流進学校へと押し上げるのだが、それはエチ先生が求めた「結果」ではないことは本文でも触れられている。また、各章の後にある「HASHIMOTO METHOD」というコーナーも違和感の原因だと思う。この授業について解説するというものであるが、「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる」というエチ先生の言葉が重要なキーワードとして本文中に記されているのにもかかわらず、「スロウ・リーディング」はこんなに役に立つんですよ、というような内容なのだ。
本当の結果とは
本書にケチをつけようという気は毛頭ない。だが、違和感を感じていることは事実である。私はこの違和感を、エチ先生と本書が投げかけている波紋ではないかと思っている。
知識とは何か。学校の授業は、教師と生徒の関係はどうあるべきか。そして、教育が目指すべき本当の「結果」とは何なのか。そのヒントを本文から引用して紹介したい。卒業文集に編集後記として掲載されたエチ先生の文章の一部である。本書の中で、私が最も好きな一節だ。
「教室での関係はすでに終わつた。授業料でつながれていた束縛はなくなつた。目に見えない校則でしばられていた枷は外された。嘗て教室で国語を手がかりとする教師と生徒であつたという、精神的な連帯感だけとなつた。これから、諸君と私との間に、新しい楽しい関係が生じなければならないと思う。是非、そうしてほしいと思う。しかし、たとえそうならなくても私は嘆かないつもりである。私のために諸君の自由を束縛することはできないからである。私はまた、自分の手許から飛び立つていつた小鳥たちのことは忘れて、新しく“灘”という巣へやつて来た小鳥たちのために、夢中になつて餌ごしらえをすることであろう。その小鳥たちも、私の手の及ばなくなるほど成長した時に、私の手から飛び立つていくだろう。私はだまつて見送るだろう。そうして私は老いていく。それが私の一生である。」
要するに、教師の役割は生徒を巣立たせることだけであり、その仕事は巣立つまでの餌ごしらえなのだ、というエチ先生の腹のくくり方が軽やかでもあり、重くもある。数年後には何の関係もなくなってしまうかもしれない小鳥たちのための餌ごしらえを、休まず丹念に情熱を込めて続けてきたことこそがエチ先生の本当のすごさなのだ。スロウ・リーディングという方法論だけが注目され一人歩きをしてしまっては、肝心なことが見過ごされてしまうような気がする。私が本書に対して感じている違和感は、このことなのだと思う。
親であれ職業教師であれボランティアのスポーツ指導者であれ、小鳥たちの餌は、自分で探し、自分の身体で運び、自分の手で与えるべきだ。きっとそれが、子どもを育てるということなのではないだろうか。
エチ先生の言う「結果」とは、生徒たちが卒業して還暦を過ぎても前を向いて歩いていることであり、そのために小鳥たちに与えた餌が『銀の匙』と授業プリントである。さて、私は小鳥たちにどんな餌を見つけられるのだろうか。そして、私が関わった子どもたちは、どんな大人になるのだろうか。
(尾原 陽介)
カテゴリ:その他
タグ:教育
出版元:小学館
掲載日:2011-10-10