ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
哲学な日々 考えさせない時代に抗して
野矢 茂樹
哲学とは
フィールド種目(陸上競技の)体質なので、トラック種目のようにピストルの“ドン”に合わせてスタートさせられるのはどうも苦手だ。どうして他人の都合に合わせて走り出さなければならないのか。その点、フィールド種目は、制限時間の範囲内であればいつ試技を始めてもいいのだ。自由じゃないか。
こんな話を、トラック種目が専門の同級生としていたら、妙な答えが返ってきた。
“あれは、自分で鳴らすんだよ”。さらに、“フィールドの方こそ、いつ自分の番が回ってくるか分からないのにどこが自由なんだ。”と言った。
つまり、トラック種目はスタート時刻が決まっているからタイミングが図りやすい。場合によってはその時刻に、あたかも自分が引き金を引くがごとくピストルを鳴らす、と考えることもできる。それに比べフィールド種目は“パス”することもあったりして、他の選手の都合によって、試技は名簿順に回って来るとは限らないから、どうやって集中を高めたらよいかわからないじゃないか。というのだ。なーるほど。
先日、あるトップスプリンターの話を聞く機会があったので、そのあたりのこと、つまりスタートラインに立ったとき何を考えているのか、どんな集中方法をとっているのか質問してみた。
返ってきた答えは、“ピストルの音に合わせなければならない、という条件は皆一緒だから仕方ありません。気にしないように努めています”、また、“あまり自信が持てるほうではないので、スタートはできるだけ開き直ることにして、「自分」に集中するようにしています”というものだった。
は? どういうこと?
この人なら“自分で鳴らす”以上の、“オレサマ”的すごいことを言うんじゃないかとの期待も込めて尋ねたのに、あくまで謙虚、というよりむしろ新鮮だったのは、ネガティブな表現も厭わず使うその姿だった。
ポジティブな言葉で語ることが是とされる昨今、この、冷静で、ニュートラルな位置に身を置くこの選手の存在に、非常に“テツガクテキ”なものを感じた。哲学とは“気づき”の学問であると(はなはだ単純ではあるけれど)私は思うからだ。
スプリンターと論理の必要性
さて今回は、『哲学な日々』。著者の野矢茂樹は、「哲学は体育に似ている」という(ま、そう書かれた部分を私が引用しただけなんだけどね。しかし、「身をもって哲学を体験する」という表現も出てくるから、私の短絡も決して間違ってはいないと思う)。
たとえば野矢は、「論理の必要性」を説き、「ある主張を解説したり、その理由を述べたり、そこから何かを結論したりする。あるいはまた、主張を付加したり、補足したり、先の主張に反論したりもする」と言い、それを言葉で伝える訓練が重要であるとしている。
スプリンターにも、この力の必要性が当てはまるのではないか。
“スプリンターは生まれるもので、育てるものではない”という素質論的な考え方があって、強く異論を唱えるつもりはない。しかし一方で、10年におよぶ長い期間を日本の(世界の)トップスプリンターとして活躍する選手も近年では増えている。そういう選手は、だからこそ“才能一本”では決して走っていない。緻密なトレーニング計画(推論)のもとに、丁寧に丁寧に、才能に磨きをかけ、スプリンターとして自らを“育てる”作業を根気よく続けているように私にはみえるのである。
「論理的」とは「推論が正確にできること」だ。100メートルを速く走りたいという想い(「妄想」)を脹らませるだけでは、足は速くならない(「哲学にならない」)。100メートル走という古典的な種目ではあるけれども、「それを新しい見方、新しい考え方のもとに説明」し、しかも「その説明は、きちんと理屈の通ったものでなければならない」。また、そういった“論理的知性”の重要性は、100メートル走という、ある意味“単純な”種目だからこそ、より高いものが求められるに違いない。
今回、引き合いに出させてもらったトップスプリンター氏は、別の質問者による問いに対し、自身の身体的特徴を踏まえた上で考え抜かれたオリジナリティの高い(少なくともボルトとは全く異なる)観点から、自らの理想とする“走り方”について述べた。それは、謙虚であるけれども、確信に満ちているものであった。
彼のような選手が、新しい世界を切り拓き、日本の短距離界がさらに発展していくことを切に願う。
(板井 美浩)
カテゴリ:その他
タグ:哲学
出版元:講談社
掲載日:2017-02-10