ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
スポーツ解体新書
玉木 正之
スポーツを“解体”する
私は“解体新書”というとまず日本最初の西洋解剖学書の訳本を思わずにはいられない。“解体”には物事をバラバラにするとの意味もあるが、この場合は“解剖”を意味する。従ってこの「解体新書」というタイトルは、素直に読めば「新しい解剖書」という真にシンプルなタイトルになるところだ。
しかし“新書”という言葉に込められた意味を私なりにこだわれば、この言葉には新しい分野や秩序を築こうとするときの緊張感がこめられていると思う。
誰も到達したことのない領域に達し、それを世に現すことを許された者だけが使える“新書”という言葉。
この言葉がタイトルに踊る本を読み開くとき、私は期待感にワクワクし、緊張感で胸をドキドキさせながら頁をめくる。
さて、今回ご紹介するのは“スポーツ”の解体新書である。本書は、今まで既成事実として君臨(?)してきたスポーツに対する概念規定をことごとく“解体”して新しい概念を構築しようとする意欲作である。私の“新書”への期待感も裏切らない。
筆者の新たなスポーツ秩序の道すじをつけようとする情熱が、熱波となって頁をめくるごとに襲ってくる。
「体育」と「読売巨人軍」
筆者はこの2つが日本のスポーツを、本来のスポーツの意味から遠ざけたと言っている。明治において欧米文化を取り入れることに躍起だった日本にスポーツが輸入されたとき、残念ながら日本には 受け皿となるスポーツの社会基盤(インフラストラクチャー)がなく、結局大学が主な受け皿となる。しかし、世間の学生に対する目は厳しく、学生の本分は学問(精神活動)であるとして身体活動であるスポーツを“遊び”として認めずしょうがなくスポーツを「精神修養の道具」として世間へ認知を図るのである。
その後「“下級学校”に配られた結果日本では、スポーツが体育へと変貌しスポーツと体育が同種のものとして考えられるようになった」と言うのである。それ以降スポーツは学校体育の専売特許となり、学校教育だけのものとなる。その結果、スポーツ本来の年齢に関係なく誰もが楽しめ、どこででも行えるというスポーツ観は、日本で育つことがなくなってしまったわけである。
読売巨人軍は、もちろんプロ野球のジャイアンツのことである。数々のスーパースターを生み出し、日本のスポーツ界の頂点に立つこのチームも、筆者に言わせれば日本のスポーツをダメにしているという。
一民間企業が、その企業の宣伝効果のみを優先させて運営しているところに、形こそ違うがメジャーリーグやヨーロッパのクラブチームの運営形態と決定的に違うことを指摘する。さらに、特定のメディアが特定のチームと結びついていることに、筆者は大きな疑問を寄せている。
筆者は、最後に次のような言葉で本書を締めくくっている。
「日本のスポーツ界が(とりわけ、日本人に絶大な人気のある野球界が)過去のしがらみを断ち切つて変革に手をつけ、たとえ小さな一歩でも未来にむけて新たな出発を始めるとき(中略)日本の社会が、真の豊かさの獲得に向かって歩み始めるとき、といえるのではないでしょうか」
そういえば、どこかのワンマンオーナーがようやく引退というような記事が最近あったように思うが、これで少しでも日本のスポーツ界が変わるといいですね、玉木さん。
(久米 秀作)
カテゴリ:その他
タグ:スポーツの意味
出版元:日本放送出版協会
掲載日:2012-10-08