ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
我ら荒野の七重奏
加納 朋子
エンターテイメント
帯には「子供の部活なのに……頑張るのは、親!?」「笑って泣ける部活エンターテインメント」という惹句が並ぶ。主人公の山田陽子は、“ミセス・ブルドーザー”の異名を持つ多忙を極めるやり手のキャリアウーマン。目の前にあるもの全部をぶっ壊して、更地にしてしまうと恐れられているのだ。
その“ミセス・ブルドーザー”が、息子・陽介の中学校の吹奏楽部入部をきっかけに保護者会活動に巻き込まれていく、というストーリーだ。
なるほど、エンターテイメントな小説である。見事なまでのご都合主義。
そもそもが親目線の小説なので仕方ないのだが、陽子は「たかが中学校の部活動」「なんだってそこまで親がかりなわけ?」と言いながら、問題を解決し環境を整えるのはすべて親である自分。しかもその解決方法たるや、文字通りブルドーザーのごとき圧倒的力技。いやいやいやないないない…とツッコミながら、引き込まれて最後まで一気に読んだ。
子どもの自主性はどこへ
部活動については、教員の労働問題としてここ最近ある問題がクローズアップされている。多くの先生が部活動の顧問を強制的に受け持たされているにもかかわらず、“自主的活動”扱いとされ、手当がほとんど出ていないというのだ。国は教員の負担軽減のため、今年4月から「部活動指導員」を制度化し、外部指導者を学校教育法に基づき学校職員として位置づけるようになった。しかし、その待遇面に関してはほとんど進展がないようで、依然として部活動指導はボランティア活動であることに変わりないらしい。
この小説の舞台である公立中学校の吹奏楽部も保護者会によるボランティア活動で運営されている。もちろん学校からも予算が出ているし、メインの指導者こそ音楽経験のある教師だが、各パートの指導は様々な伝手で講師を依頼したり、経験のある親が務めたりしている。定期演奏会の会場確保や準備運営やスポンサー探し、また、コンクールなどの会場への生徒の引率や楽器の運搬も保護者会の仕事だ。保護者会は発言力を増し、指導者の方針や指導方法に口を出すようになることもある。顧問の先生は、保護者会を敵に回しては部活動自体が成り立たないので、無下にはできなくなってくる。親が熱心に応援したり手伝ったりすればするほど、教師や生徒への要求はエスカレートしてゆく。子どもたちの自主的な活動であるはずの部活動なのに、優先されるのは周囲の大人たちのプライドやエゴだ。
「たかが中学校の部活」で、それを支えるべき親同士が保護者会内での勢力争いを繰り広げる。陽子自身も、子どものためというのはきっかけに過ぎず、自らのプライドのために戦っているのではないか。もちろん、面白おかしく誇張されたフィクションではあるのだが、部活動の主体であるべき子どもたちが置き去りにされているように感じる。
入部当初、トランペットに憧れて吹奏楽部に入った陽介が涙ながらに陽子に訴える。「トランペットはダメだって言われた。ファゴットというのやれって」。それが「陽子の内にある、闘争心という名のダイナマイト」に火を点け、即刻顧問にねじ込みに行ってしまう。とんでもないバカ親っぷりである。
しかし物語のラストで、陽子は子供の自立が親の望みなのだということ思い至る。やや唐突な感じは否めないのだが、このラストはよかった。
部活動のよい面
とかく批判されがちな部活動というシステムだが、よい面もたくさんあると思う。前述の通り、陽介の担当楽器はファゴット。自身の希望に反して割り当てられた楽器ではあったが、少しずつその魅力に気づき、いつしか管楽器のリペアマンになりたいという夢を持つようになった。「ぼくは自分でそんなに才能ないのはわかってるけど、でもファゴットが好きだから。演奏人口も少なくて、だからわからないことや困ることも多くて……それでもいろんな人に助けられてきたんだ。だからぼくも、誰かを助けてあげられたらって思って。」
これは、部活動というハードルの低い活動ならではのことだと思う。中学・高校は、子ども時代の終わりであり大人時代の始まりでもある。その多感な時期に、様々な価値観に意図せず触れられるチャンスが部活動にはある。それこそが部活動の教育的価値ではないだろうか。
(尾原 陽介)
カテゴリ:フィクション
タグ:吹奏楽
出版元:集英社
掲載日:2017-08-10