ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
近代日本を創った身体
寒川 恒夫 中澤 篤史 出町 一郎 澤井 和彦 新 雅史 束原 文郎 竹田 直矢 七木田 文彦
心身を耕す
“耕すからだ”というセミナーを3年ほど前から開講している。“畑”を耕すのではない、耕すという身体的行為を純粋に愉しむことで太古の昔から人に備わっている原初的な身体能力に気づき心身を耕そう、という目的で行っているのである。ちなみに、私の勤める大学にはソツロン(卒業論文)がなく、代わりに、6年の卒業年次のソツシ(卒業試験)に合格した者が、ソウハン(総合判定試験)という国家試験以上ともいわれる難易度の試験に合格したのち、卒業が認定される。
そういう中で、セミナーは卒業認定に必要のない単位取得を目指す、いわば“余計な労力を費やす科目”ということになるのだが、趣旨をしっかり理解し、嬉々として受講してくれる学生も少なからず存在するのである。
セミナーでは私は教えることは何もなく、学内の空地に“教材”として定めた地面を学生とともにただただ耕す。
古い建造物のあったこの空地は、粘土質なうえにおびただしい瓦礫が埋められており、三本歯のクワなどすぐに曲がってしまった。考えが甘かったことを反省しつつ、ツルハシを用いて粘土を瓦礫もろとも掘り起こす作業を続け、約2アールの広さを耕すのに1年を要した。また、ものは試しと埋めた(植えたのではない)ジャガイモは、こんなヤセた土地にもかかわらず、立派な地下茎を生らせて植物のたくましさを教えてくれ、ジャガイモに尊敬の念を抱いたりした(ついでながらジャガイモを埋めたのは、作物がないと他の学生にいぶかしがられるので“畑”をやっているように見せるのが狙いである)。
2年目には、最初は粘土質で生き物感のなかった土地に明らかに生物の多様性が生まれ、土が柔らかく感じられるようになった。夏には耕す端から草が伸びて来、雑草の足の速さに驚愕しながら“人間て非力な存在だよなあ”などと言って哲学をした。
3年目の今年は、根粒菌による土壌改良の様子を観察するため枝豆の種を撒いた(蒔いたのではない)ところ葉は生い茂り実がたわわに生ったので、収穫を目的にするものではないが実った枝豆はありがたく頂戴した。
身体に対する意図
さて今回は『近代日本を創った身体』。編著者の寒川恒夫を含む、8名の手になるものだ。
「外から新しい文化がもたらされるのがきっかけで」「日本人のそれまでの在り方を一変」させられることがある。「からだ」すなわち「心身を孕んだ身体」は、命の母体として個人の枠を超えて、時代々々の文化も載せているのである。
その「からだ」が「明治という時代」に「欧米の近代文化」導入のため、「まるごと意図的に、それも国策として」「ごく短期間に国民を広く深く変えることが目論まれた」。「身体の動かし方から、身体についての考え方まで」「近代社会には、近代社会にふさわしい『からだ』がある」からである。
そしてそれを「どのように創っていった」のかを、「国際比較の中で発見された日本人の『劣った身体』や近代社会が否定する『はだか』から、臣民に求められた身体、国家をリードする官僚の卵である帝国大学生に求められた身体、近代企業が期待する身体、さらには、人を国の人的資源とみて、休むことさえ管理する『リ・クリエイトされる身体』まで及んで」考察されている。
スポーツの動作と生活に密着した動作
近代スポーツは、競技条件の公平性を求めてルールの合理化や施設・用具の整備がなされてきた。競技が細分化し専門化するほどに必要とされる体力・技術は特化したものとなり、練習やトレーニング法さらには用具もそれに伴って、たくさんの人為的意図を盛り込んで変化(すなわち科学的に発展)させられてきた。
それはまた、特化するほどに生活の場にある動作からは逸脱していくが、現代に生きる私たちはこのような“人工的”に整えられた身体活動を特段の違和感を覚えることなく受け入れている。
一方、耕す・掘る・薪を割る・ノコギリを挽くなどの、古くから生活に密着した動作は自ら体得するものであり、受け継がれる中で“自然”に工夫が加えられてきた。しかしこのような身体活動は、今では接する機会が少なく、実施するのにむしろ敷居が高く感じられる動作となってしまった。
しかしながら、このような生活とともにあった“自然”な動作と、競技のような“人工的”動作との間には、隔たりがあるようでいて実は共通する点が多いように思われる。“耕すからだ”では、このあたりのことに考察を広げていきたいと考えているところである。
(板井 美浩)
カテゴリ:身体
タグ:近代 身体 日本
出版元:大修館書店
掲載日:2017-10-10