ATACK NET ブックレビュー
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伊能忠敬 日本を測量した男
童門 冬二
言わずと知れた、日本を測量し、地図をつくった人。生い立ちは決して明るくない。
母を亡くしたあと、婿養子だった父は、家を追い出されるように実家へ戻る。そのとき、上2人の兄弟は連れて帰るが、忠敬は置いていかれる。その後、父親に呼び寄せられるが、忠敬に対する態度は冷たいままだ。置いていかれた庄屋では、年貢の取り立てなどのために、役人の出入りが多くあった。そこで忠敬は、そろばんの使い方を教わり、計算を覚える。夜になれば空を見上げ、星を眺めた。悪いことばかりではなかったのかもしれない。
やがて忠敬は伊能家に婿養子として迎えられる。不幸が続き、跡継ぎがいない状態で切羽詰まり、白羽の矢が立ったのが忠敬だった。伊原村では、伊能家は永沢家と並び、ご両家と呼ばれる名家だった。しかし、姓を名乗り帯刀が許される永沢家に遅れをとっていた伊能家は焦っていた。最初こそ白眼視されていた忠敬だったが、次第に頭角を表し、伊能家のみならず、地域のひとびとにも感謝され、信頼されるようになる。この過程を興味深く読んだ。
奉行所との折衝では伊能家3代前の景利が残した膨大な資料に助けられながら、自身の主張の正しさを証明する。天明の大飢饉では、非常時のためにプールしていた財産をすべて吐き出し、佐原村のひとびとだけでなく、放浪者のために炊き出しも行う。伊能忠敬は、世のため人のためにしなければいけないことは、率先して行わなければならない、という考えを生涯持ち続けた。
その公僕精神が災いしてか、日本測量の旅では、まわりのひとびとと、摩擦や軋轢を生むこともあった。それは52歳の伊能忠敬が、31歳の高橋至時に師事してからの話になる。サムエル・ウルマンの青春の詩がぴったり。
(塩﨑 由規)
カテゴリ:人生
タグ:地図
出版元:河出書房新社
掲載日:2022-07-25