ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
歌う人のためのはじめての解剖学 しなやかな発声のために
川井 弘子 坂井 建雄
歌うことが好きだ。好きというよりももはや呼吸することに近い。何かを見て連想しては歌い、何かの曲を聴いては続きを歌う。普段から大体歌いながら歩いている。以前は歌っているとよく「お、ご機嫌だね」「いいことがあったの?」と言われたが、流石に最近は何も言われなくなった。周囲の人に「これはこういうやつだ」と認識されたというのも一つの理由だと思うが、もう一つ。機嫌がいい=歌う、という図式が世から消えつつあるのではないだろうか。我々のような一般庶民にとって歌は歌うものから聴くもの、あるいはそのパフォーマンスを観るもの、に変わってきているのかもしれない。若い人たちに「あなたにとって音楽とはなに?」と聞くと十中八九「なくてはならないもの」という答えが返ってくるが、もう少しよくよく聞いてみると彼らにとっての音楽とは「ケータイのサブスクでイヤフォンを通して聞くもの」であることが増えた。ダンスためのものであることもある。それでも「推し」がある、という人はコンサートへ、観劇へ、出かけるという生の体験をするし、場合によっては「一緒に歌う」などということもあるかもしれない。カラオケは好き、という人もいるようだ。
さてその「歌う」ということだが、この本の表紙には「歌うことは、個人的で、繊細かつダイナミックな行為です」というサブタイトルがついている。この「個人的で」という部分、なるべく個ではなく全体でいたい人たちにとって「歌う」ということは年々ハードルの高い行為になるのかもしれない、と思いつつ扉を開く。
まず「歌う学びかたさまざま」という章が目に飛び込んでくる。何か身体的な表現なりパフォーマンスなりを学ぶ、トレーニングをする、練習する、という場合、大きく分けて科学的アプローチと感覚的アプローチがあるが、そのどちらかだけを盲信することの危険性について述べてある。理屈だけでは人は動けなくなるし、感覚は個々の人によってそれぞれ違う。特に感覚については、私はレッスンのときいつも「私はこうするがこれは私のやり方であって、それがあなたに良いとは限らない」「あなたはあなたのやり方を探さなければならない」ということを必ず言うようにしているのだが、まさにそのようなことが書いてあって、少しほっとするような気分になった。手の大きさも、口の形も、腕の長さも、何もかも人はそれぞれ違う。自分がこうして上手く行くものが、必ずしもその人にとって良いとは限らない。かといって、常にチューナーを見て音程だけが正しい音を音楽といえるかというと私は違うと思のだ。ではどうしたら良いのか。
教わる側は言われた通りにすることが目的ではなく、何のためにそうするかをよく考えて自分なりに考えて練習すること、言われたことを「しない」という選択肢もあるということ。教える側は相手の状態をよく理解し何が必要かを見極めること、自分のやり方に固執して強要したり、相手のスペースに踏み込み過ぎたりしないこと。こう書くとなーんだ、そんなこと、というくらい当たり前で簡単なことのようだが、それができないから誰もが色々な場面で悩む。
教わる側は誰かに「ああしろ」「こうしろ」と言われて「はい!」「はい!」と勢いよく返事をしているとなんだかとても頑張っている感じがするし、そのことに充実感を覚えることもある。教える側は教える側で、指示を出して全てをうまく采配することこそが自分の役割だと自認していることも多いのではないだろうか。たまたまそれがうまくいくことはもちろんあるだろう。しかしそれだけで本当に全てがずっとうまく行くのか。
私は「自分がどうしたらもっと良くなるか」は基本的にその人が自分で考えるべきだと思っている。私が頼み込んで歌ったり演奏したりしてもらっているわけではないし、この場合「上手になりたい」のは私ではないからだ。ただ、私は少しだけ相手より経験を積んだ者として、ああしてみたら、こうしてみたら、とヒントを言うことができるくらいのことだ。やってみてうまくいけばそれでよし、うまくいかないならやめれば良いのだ。
そういう、ああしてみたら? こうしてみたら? といって色々試してみるときに、教える側と教わる側の共通言語となるのがこういう解剖学の「知識」であるかもしれない、とこの本を見ながら考えた。ここのこの部分がうまくいかない、と思ったとき、身体の仕組み、成り立ち、部分部分の役割、関係性を知っておくことは非常に有効である。目を酷使すると肩が凝り頭が痛くなる、ということはすでに周知の事実だが、背中が痛い、肩凝りだ、と思っていたら実は心臓だった、ということもあるそうで、歌の場合も喉だ喉だと思っていたら実は脚の位置だった、というようなことは多々ありそうである。
こうしたことは何も歌、音楽に限ったことではないのではないだろうか。高く跳びたい、速く走りたい。脚力だ、脚力だ、と思って脚を鍛えに鍛えても記録が伸びない。実は問題は脚ではなく、腕だった、というようなことである。そうしたとき、その事実に教える側、教わる側、どちらが気がつき、どちらがこうしてみようと言うか。目的は楽によく響く声を出すことであって、喉の力を抜くことそのものを目指しているわけではない。目的は高く跳ぶこと、速く走ることであって、脚に筋肉をつけることがゴールではない。そのことに気づける演奏者でありたいし、そのことに気づける指導者でありたい。
言われた通りにするだけでなく、どうしたらうまくいくか自分で考えて工夫する。こうして文字にしてしまうとあまりに当たり前なのだけれど、日々練習、トレーニングに追われていると、つい見失いがちなことでもあるような気がする。表題は「歌う人のための」だが、この本には何かを習得しようとする人全てに通ずるものが書かれているように思う。何かを教えたい、教わりたい人は是非手に取ってみて欲しい。身体を使って何かをしようとする人は全て、解剖学だって知って損はないはずだ。
最後に「歌うには縦糸と横糸がある」という著者の言葉に触れておきたい。横糸はフレーズをどう歌うか。縦糸はそのためにどう身体を使うか。指導の現場で当たり前のように日常的に言われる「横隔膜を使って」「しっかりささえて」「ノドをあけて」というのは不正確で必要のない斜めの糸だ、と著者は言う。このことが頭ではなく感覚的に理解できるようになるまでには私はもう少しかかりそうな気がする。この、科学的でも感覚的でもないアプローチを知的アプローチとでも呼ぼうか。目指す山の頂はみな同じでも、そこへ至るための道筋はいくつもある。それをまた一つ見つけたような気がする。
(柴原 容)
カテゴリ:解剖
タグ:発声法 解剖
出版元:誠信書房
掲載日:2023-02-27