ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
狙われた身体 病いと妖怪とジェンダー
安井 眞奈美
まず、次のような場面を想像してみましょう。あなたはいつも通り、日課である散歩をしていました。そのとき、ふいに腰の痛みに襲われます。「この痛みはなんだ?」と不安に思い、病院で医者に診てもらいましたが、原因は何も分かりませんでした。ただ、腰の痛みは確かに今も存在しています。あなたは痛みの原因を明確にするために、色々な病院を回り、色々な検査を受けました。それでも原因は分かりません。「もしかしたら原因はこれかもしれない」と医者から指摘されたので、それらを手術で取り除いてもらい、一時的に痛みの緩和が得られたりはしましたが、またすぐにぶりかえしてしまいます。今となっては、もはや八方塞がりな状態で、痛みは医学的な理解可能性・説明可能性を超えたものとして立ち現われています。
なぜこのような例をはじめに上げたのかというと、医学的な理解可能性・説明可能性に閉じられている病いは時代を問わず存在していたということを、まずは現代の文脈に即して例示してみたかったからです。もちろん、このような経験は現代人だけがしているのではなく、少なくとも有史以来、似たような場面は人々の生活の中に存在していたと考えられます。古来から、医学的実践は呪術的・宗教的実践と複雑に絡み合いながら発展してきました。いわゆる「未開社会」などでは、外傷と結びつけることが困難な痛みは、外部から「何か」が身体内に入り込んだことによって引き起こされるものなどと理解されていました。それは悪魔の仕業かもしれませんし、他人による呪いの類いの可能性もあります。自分に恨みを持った他人が、呪術によって「呪力の込められた物体」を知らぬ間に私の体内へと打ち込んだことによって痛みが生じたのだと考えられたりしていたのです。今を生きる私たちは、医学的な理解可能性・説明可能性を超えた病いや身体感覚を語る言葉を、一体どれほど持ち合わせているのでしょうか。あるいは、仮にこのような語りが現代においては妥当でないことを認めたとしても、その根底にある「何か」から医学の本質のようなものを知ることができるのではないか、と私などは考えてしまうのであります。
前置きが長くなりましたが、今回の書評で取り上げる安井眞奈美さん(以下、敬称略)の『狙われた身体 病いと妖怪とジェンダー』は、医学的な理解可能性・説明可能性を超えた病いや身体感覚を、私たちの祖先はどのように認識し、語り、対処してきたのかという点について、豊富な資料をもとに分析した書物であります。安井は、この本の「はじめに」で、小林和彦の「神や妖怪は『不思議』の説明のために存在しており、とくに『災厄・不幸』の説明に利用されてきたのが妖怪たちであった」という指摘や、伊藤龍平が「妖怪」を「身体感覚の違和感のメタファー」と定義したことなどをもとに、「妖怪に『狙われた身体』の伝承を、身体に『不思議な現象』が生じたときの説明と対処の方法である」と読み直し、分析することを目的としていると説明しています(7-8頁)。それによって「『狙われた身体』の伝統や習俗は、人々が自らの身体をどのように捉え、襲われる危険と折り合いをつけながら生きてきたのか、その足跡を伝える情報として解釈できる。それゆえ、時代に応じた危険や問題への対処法を併せもった伝承として読み解いていくことができる」のです(206頁)。これは、非常に興味深い視点だと言えます。「『狙われた身体』の伝承や習俗は、狙ってくる相手や敵を可視化し、あらかじめ備えることを可能にした」という安井の指摘は、非常に示唆的であり(同上)、このような「狙われた身体」という概念は、現代の文脈にも存在しています。例えば、安井は第1章で、2020年以降に流行した新型コロナウイルス感染症の事例を引用し、そこでは「戦争」や「戦い」というメタファーが用いられていたことを指摘しています(10-11頁)。まさに私たちは、「見えない敵」としての新型コロナウイルスによって攻撃される「狙われた身体」を防衛するための「戦い」を繰り広げてきたと言えるでしょう。また、上述の未開社会の例のように、外傷と結びつけることが困難な痛み、例えば腹痛や頭痛がどのように理解されてきたのかという点なども分析しています。このような分析によって示唆されることは、私たちがそれを「何である」と認識するかによって、その対処法として「何を用いる」かが規定される可能性があるということです。「外から来る何か」が原因であれば、それが入ってこないようにする方法が取られるでしょうし、もし既に入ってしまったのであれば、それを追い出したり、内部で沈静化させるなどの方法が取られることになるでしょう。
このように考えてみると、もしかすると現代医学も似たような構造を備えているのではないかという問いが立ち現われてきます。「がん」や「病気になった臓器」は取り除かれるし、身体内に侵入したウイルスは抗ウイルス剤によって沈静化されます。あるいは、入ってくることを未然に防ぐため、「予防」的な手段がとられるでしょう。私たちは決して、安井が分析しているような例を「昔の人たちの考えにすぎない」と簡単に切り捨てるべきではないし、実際のところ、そのような認識の延長線上にいるにすぎないというと過言かもしれませんが、非常に多くの示唆が得られることを認識し、詳細に分析するべきなのでしょう。
また、安井はそれだけではなく、伝承や習俗がどのように語られてきたのか、誰によって語られてきたのかなども分析しています。1930年代に流行した「蛇に襲われる女性」の例などは、社会的弱者とみなされていた女性の物語が、男性や村の物知り、医者などによって語られたというジェンダー的・認識論的、あるいは死んだ者と生きた者という存在論的な「語りの非対称性」を明らかにしています。このような「語る者-語られる者」という認識論的・存在論的な非対称性や権力構造に基づく非対称性は、現代医学の現場における「医師(医療従事者)-患者」の非対称性という構造を分析する際にも役立つ可能性があるため、非常に示唆的であると言えるでしょうし、それらに付随するであろう多くの倫理的問題を自覚するためにも重要であると考えられます。
私たちは、単に「前近代的であるから」といって、このような身体観を切り捨てるべきではありません。そこでは、現代とも共通する多くの構造が共有されており、現代の文脈における医学的・倫理的な問題を解決する糸口を掴むことができる可能性が含まれているということを、豊富な資料に基づく詳細な分析によって提示したことは、本書が多くの人に読まれるべきものであるということを示しています。また、ジェンダー論的な問題点も多く指摘されていることから、本書で扱われているのは単に「医学的」な問題ではなく、もっと広く「社会的」に開かれた問題であるという点で、本書は非常に多くの示唆に富んだ書物であると言えるでしょう。
(平井 優作)
カテゴリ:その他
タグ:身体 妖怪
出版元:平凡社
掲載日:2023-10-26