ATACK NET ブックレビュー
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反哲学史
木田 元
『反哲学史』といういささか奇妙な表題を掲げる本書は、一見するだけでは何を目的として書かれたものなのかが了解できない。著者も冒頭において、それが哲学史に対する反=アンチ(つまり、反-哲学史)であるのか、それとも哲学に対する反=アンチの歴史(つまり、反哲学-史)のいずれであるのか、と問われることだろうと述べている。しかし、著者曰く「反哲学史」はそのどちらでもない。それではいったい、著者はどのようなことを想起しつつ、この表題を掲げたのであろうか?
この点について、著者は次のように述べている。「私のねらいは、哲学をあまりありがたいものとして崇めまつるのをやめて、いわば『反哲学』とでもいうべき立場から哲学を相対化し、その視点から哲学の歴史を見なおしてみようということ」である(p.9)。つまり、反-哲学史でも反哲学-史でもなく、それは「反哲学的観点からの哲学史」を描こうとする試みなのである。
「反哲学」という言葉の由来は、20世紀の哲学者(少々ややこしいので、著者は「思想家」と呼んでいる)たちが行ってきた思想的営みにあり、彼らは自らの営みを「哲学」とは表現せず、むしろ「哲学の解体=脱構築(déconstruction)」を目指していたことが述べられる(pp.10-11)。それは、「『哲学』というものを『西洋』と呼ばれる文化圏におけるその文化形成の基本原理とみなし、この西洋独自の思考様式を批判的に乗り越えようと」する克服の運動なのである(p.10)。このような視点に連なる系譜として「反哲学史」を記述することが可能なのであり、著者の試みは、そのような観点から哲学史を再構成することへと向けられているのである。
それでは、本書の内実はどのようなものとして語られているのだろうか。まず本書は、ソクラテスの思想という「哲学」の誕生の場を振り返ることから始まっている。そこでは、彼は愛知者(ho philosophos)であり、アイロニストであったことが語られる。そして、彼のアイロニーは「無限否定性」とでも呼ぶべきものだったことが明かされる。しかし、彼の哲学は、その無限否定性の故に新しいものを持ち出すことはできなかったのである。
それでは、彼はなぜこのような無に立脚した否定性を自らの哲学的手段としたのだろうか? それは、この否定性が「新しいものの登場してくる舞台をまず掃き清める」ための武器だったからである(p.63)。そこで清掃されたのは、「当時のギリシア人がものを考え、ことを行う際に、つねに暗黙の前提にしていたもの、つまり彼らがありとしあらゆるもの、存在者の全体を見るその見方だった」(p.63)。したがって、次に疑問となるのは「古いもの」としての初期ギリシア哲学者たちが問題としてきた「存在者の全体を見るその見方」である。それは、「自然(physis)」という概念に注目しながら、次のように述べられている。「彼らにとって自然とは、人間や、神々をさえもふくめた存在者すべてのことであり(...中略...)より正確には、そうしたすべての存在者の真の本性、つまりすべての存在者をそのように存在者たらしめている存在のことなのであって、彼らの思索はまさしくこの存在がなんであるかを究めることにむけられていた」のである(pp.69-70)。しかし、本性としての「フュシス」は仮象としての「ノモス」との緊張関係の中に置かれることとなり、ソフィストにあっては、もはやフュシスは祭りあげられてしまい、そこで目を向けられるのは人間社会としてのノモスだけであり、このような堕落した形で自然的存在論は引き継がれることになった。ソクラテスがアイロニーの刃で切り裂こうとしたのは、まさにこのように堕落した存在論だったのである(p.80)。
その後、プラトンからアリストテレスを経る西洋哲学の歴史が記述されていくのであるが、ここで専ら問題となるのは「新しい存在論」を巡る議論の歴史であり、そこから明らかにされる「形而上学的思考様式」である。これが本書において、非常に重要である。なぜなら、「その超自然的原理、形而上学的原理は、その時どき『イデア』と呼ばれ、『純粋形相』と呼ばれ、『神』と呼ばれ、『理性』と呼ばれ、『精神』と呼ばれて、その呼び名を変えてゆきますが、この思考パターンそのものは、その後多少の修正を受けながらも一貫して承け継がれ、それが西洋文化形成の、いや少くとも近代ヨーロッパ文化形成の基本的構図を描くことになる」からである(p.114)。ヘーゲル哲学において完成される(と本書においては考えられている)この「形而上学的思考様式」こそが、西洋を一貫して支えてきた文化的根源なのであり、このような思考様式を解体=脱構築し、根源的自然=フュシス的存在の生成力を復権しようとする運動こそが、後期シェリングの哲学からキルケゴールの実存哲学、マルクス、ニーチェの哲学に脈打ち、20世紀の思想家たちが継承した「反哲学」なのである。そこから、いわば逆照射した結果、本書が描く「形而上学的思考様式」が垣間見えてくるのであり、そのような相対化された視点を用いて哲学史を眺めてみることは、非常にスリリングな試みである。
また、このように前景化された形而上学的思考様式は、それと並行して形作られてきた文化としての「西洋医学」、あるいは西洋的な知の様式をその始原とする「科学的思考様式」とも決して分離することはできないのであって、私たちのような医療・スポーツ関係者が本書から学び取れるのは、そのような西洋的伝統を一旦は相対化し、汝自身がいったいどのような地点にいるのかを把握することであり、本書の試みはその手段の一つとなるであろう。その意味で、哲学史(さらには、反哲学的観点からの哲学史)を学ぶことは、非常に有意義なことである。そのための入門書として、比較的平易な言葉で語られる本書は最適な門であるだろう。
(平井 優作)
カテゴリ:その他
タグ:哲学
出版元:講談社
掲載日:2024-01-26