ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
泳ぐことの科学
吉村 豊 小菅 達男
コーチやトレーナーは科学の目で物事を捉え、科学の頭で考えるべきである。しかし実際に対象となる選手に、この方法は科学的だからという理由だけで納得させ、実際のパフォーマンスに結びつけることは容易ではない。科学的に「わかっている」ことをいかに咀嚼(ルビ:そしゃく)し、個々人にあった方法に消化し、効果的に伝え、落とし込むことができるか、これはコーチ、トレーナーという人間の力に大きく左右される。科学的な基礎の上に経験に裏打ちされたさまざまな工夫を重ねるうち、壁を越えて成長し、それを改めて科学的に解析した結果、今までよりもさらに効果的な方法が一般化されることも少なくない。そこにバランスの妙がある。
本書『泳ぐことの科学』では、「普通の選手でも天才のレベルまで感覚を高めることができる」方法として「ビルド・トレーニング」が紹介されている。科学の目を持ったうえでの体験を通し、試行錯誤のうえで完成したというこのトレーニングは、「考えている動作と実際に行う動作を近づけていく練習方法」である。科学的にみて効率のよい泳ぎに近づけるための秘訣が紹介されているわけである。しかし「ビルド・トレーニング」をただ知っているだけではその100%の効用は期待できないだろう。設定したゴールを分節化し、段階的に達成すべく指導することはコーチングやアスレティックリハビリテーションなどにおける基礎であるが、個々人の問題点を正確に分析し、効率的に改善するには科学的知識として「わかっている」部分と、経験などから「納得できる」部分との適切な融合が必要になる。ここがまさにコーチとして面目躍如たるところであり、この存在が介在することでそのトレーニングの効果は最大限に引き上げられるはずだ。
トレーナー業務でも、たとえば膝の前十字靭帯損傷再建術後のリハビリテーションでは、今までの臨床例の積み重ねから大まかなプロトコルはできあがっている。しかし1分1秒でも早く復帰したいアスリートとの半年以上にわたって続く綱引きは、そんな定められた流れでは抑えきれない。変化に富んだプログラムを、いかにアスリートが納得しながら取り組めるか。アスリートの覚悟が問われるところでもあり、トレーナーの人間性や信頼度、腕の見せどころである。
さて、科学的といっても、昨年からメジャーリーグを震撼させている薬学は、その使用方法を大きく誤った例である。日本のJリーグでも話題になったケースがあったが、ドーピングコントロール規定の認識不足といった議論はされても、試合前に高熱や脱水症状を呈する体調になったという本人やメディカルスタッフの問題、またそのような体調の選手を試合に出場させないという決断ができなかったことに対する議論はあったのだろうか。サッカーではごくまれにではあるが試合中に心不全と思われる死亡事故が報告されている。ドーピングという明らかな違反行為に至らなくとも、高地トレーニング中の事故や、サプリメントの濫用など、科学という名の下にひずみが起こっていないわけでもない。科学とは最大限利用すべきであるが、絶対的な正解ではないことを理解する必要もあるだろう。
いずれにせよスポーツの世界ではヒトが積み重ねた経験と弛(ルビ:たゆ)まざる努力を科学が追い越し、追い越され、少しずつ進化していく。そこがおもしろいところである。
(山根 太治)
カテゴリ:指導
タグ:水泳 コーチング
出版元:日本放送出版協会
掲載日:2012-10-12