ATACK NET ブックレビュー
トレーニングやリハビリテーションなど、スポーツ医科学と関連した書評を掲載しています。
医の倫理と法 その基礎知識
森岡 恭彦
体で育む、体育
体育は“体で育む”と読みたい。そのほうが“体を育む”より生命の根源に近いところに触れられそうな気がするのである。
そもそも人が運動をするのは、そこに“心地よく感じる”何かがあるからだ。競技での成功を目指して、健康のため、あるいは痩身を決意してなどなど、運動やスポーツを行う目的や動機は人それぞれだろう。しかし1つ“気持ちよい”という身体の感覚が、もっと根本的な動機として皆にあるのではないだろうか。
汗を流してスポーツすることだけではない
この“快感”という身体感覚を頼りに、“体で育む”ことのできることは何かと考えてみると、せっせと汗を流してスポーツすることだけが体育の範疇(本質)ではないということに考えがたどり着く。もっと多様な身体活動、あるいはもっと幅広い身体状況の(たとえば何らかの理由により動くことが困難な)人たちを対象にできる可能性が体育にはあって、たとえば“伸びをする”ことや“触れてみる”ことだけでも、体育の授業は成り立つのではないかとさえ私には思えるのである。
体力には限界があり、命にも限界がある。体力をつけるため、あるいは維持するために運動をすることはQOLの向上に望ましいというのを否定するつもりはさらさらないが、人はいずれ老化し、不可逆的な病に罹ることさえある。失われていく機能を取り戻すことに限界はおのずと存在するのである。
しかし、たとえ歩けなくなったとしても、家族と手を握り合うことで、あるいは介護者の優しい手技や言葉に触れることで“気持ちよい”を体感することは可能であろうし、またその身体感覚をとおして互いの“体で”何かを“育む”ことができるのではないだろうか。それゆえ体育とは、命をより積極的に生きるための手助けができるもので、人は命ある限り体育を行うことが可能であると考えることもできよう。
そんなことを考えながら体育教師として日々学生と接しているわけだが、しかしながら“命ある限り”などといいつつ、そもそも何をもって生命の始まりとし、何をもって生と死を区別するのか、あるいはまた、自らの意思を表すことや外界からの刺激に反応できなくなってしまった人、いわゆる「植物状態」や「脳死状態」になってしまった人に“体育”は成り立つのだろうか、実は明確な解答を持つまでに私は至っていない。
ときに求められる厳しい選択
私の担当する学生たちは、いずれ医師となって地域医療の現場に立つ使命を背負っている。場合によって、いわゆる山間へき地や離島と呼ばれている地域で医師一人の診療所に派遣され、村一つ、島一つの命を支えなければならない状況におかれることもある。
医師とは「人の命を直接的に扱う」ことのある職業である。それだけに医師にはとくに「倫理的に厳しさが求められる」のである。「『倫理』(ethics)とは簡単にいえば『人の行うべき正しい道』ということ」であるが、しかし「医学が進歩しその力が増大するにつれて社会に大きな影響を及ぼすようになり、また医学や医療についても国際化が進行してきたこともあって」「倫理は国や民族などで異なっており、特に人々の持つ文化や宗教、国家のイデオロギーなどの影響に左右されていて複雑なところがある」。とはいえ「医療の現場ではしばしば相反する倫理的原則のいずれかを選択しなければならない事態がおこる」のであるから、心して学生時代を過ごしてほしいと願っている。
ともあれ「医の倫理と法」と銘打ってはあるが、生命の始まりや、生と死の境目の話題などは医師だけでなく我々体育を生業とする者にとっても、また一市民の立場でも関わり深いところであり多くのヒントを与えてくれ、一読の価値がある。
なお、著者の森岡恭彦は昭和天皇の執刀医としても知られる。その文体は簡明であるが揺るぎなく、周到に押し進めていく力強さには読後の“心地よさ”を感じずにいられない。
(板井 美浩)
カテゴリ:医学
タグ:医学 医療
出版元:南江堂
掲載日:2010-10-10