見えないスポーツ図鑑
伊藤 亜紗 渡邊 淳司 林 阿希子
「たとえ話」の活用
コツやカンといった実践知を獲得し、エキスパートとなるには長い年月が必要である。そしてその実践知は、明示されてない暗黙知であることが多い。しかもそれは、厳密にはその本人だけにしか当てはまらない。プレーヤーであれば、それをどう自分に取り込むか、指導者であればどう選手に伝えるか。ということを解決する1つの手段として、たとえ話が用いられてきた。
カヌーイストの野田知佑氏のエッセイにオールの漕ぎ方についてのコツが書いてある。氏が大学のボート部で、たとえ話のうまいコーチに教わったコツだそうだ。ボートやカヌーではオールを水に入れて水をつかむ動作をキャッチというのだが、初心者には難しい。オールを下手に水に叩き込むと、水を割ってしまい推進力にならない。うまく水をつかむコツは、「キャッチは女の尻をなでる時の要領でやれ、お前ら、ワカッタカ」だそうである(『のんびりいこうぜ』より)。いや、今ならこれは問題になりそうだが、1938年生まれの氏の大学時代のことなので許されたい。
しかし、たとえ話というのはそれを受け取る側にも相応の知識と経験がいる。「当時、僕のクルーは全員、純真無垢の正しい青年がそろっていて、女の尻はおろか手を握ったこともない奴ばかりでさっぱりワカラナイ。みんなで顔を見合わせて途方に暮れたものである。それで練習中フネを止めて真剣な顔つきで前の座席で漕ぐ奴の尻をなでたりした。知らない人が見たら、きっと誤解したと思う」ということになってしまう。
アスリートの感覚を“翻訳”
本書『見えないスポーツ図鑑』の取り組みは、視覚障害者とスポーツ観戦をする方法を探るところから始まった。そこから、トップアスリートの感覚を“翻訳”することで、初心者もそれを味わえるようにすることへと派生する。それを本書では「一つの道を究めた先人がいる道を、少しだけ同じ感覚で歩かせてもらうためのショートカットを作りたい」「私たちの身体感覚に新しいボキャブラリーをもたらしてくれる」「トップアスリートの感覚をインストールする」などと書かれていて、これはなかなかよい表現だな、と感心した。
“翻訳”のコツは、見た目を離れることと抽象化すること。前者は「非日常的な競技を、競技以外の動きに置き換えて伝えること」、後者は「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する、ある種の“見立て”」である。これは、とくに指導者であれば常にぶつかっている問題だと思う。たとえを使ったり、擬音を使ったりして、どうにかして感覚を伝えようとするが、うまくいかないことの方が多い。
その感覚を、手近なものを使って疑似的に体験してみよう、というのが本書でいう“翻訳”である。紹介されているのは10種目。ラグビー、アーチェリー、体操、卓球、テニス、セーリング、フェンシング、柔道、サッカー、野球。その内容は、そのままウォーミングアップとして使えそうなものもあるし、練習の合間の休憩時間にレクリエーションとして楽しめそうなものもある。もちろん、その種目の全てを“翻訳”できるわけはない。そして「競技の要素を一度抽象化して、もう一度具体化する」というのも、言うのは簡単だが、大変難しい。それでも楽しそうに、各種目のエキスパートと著者らがああでもないこうでもない、と言いながら、それぞれの種目のオイシイところが次第にクローズアップされていき、一応の形になるまでの過程はとてもおもしろい。
“翻訳”するなら
私は小学生に陸上競技を教えているのだが、私だったら、陸上競技の何を“翻訳”するだろうか。私が陸上競技に触れたのは小学校5年生か6年生の頃だ。走るのが速く、市内の小学校対抗の陸上大会に選抜メンバーで選ばれたのがきっかけだったと思う。それ以来、陸上競技との関わりは続いているが、何が楽しいのだろうと掘り下げて考えてこなかった。工夫して記録を伸ばすところが私の性にあっていて、やっている本人は楽しいのだが、そういうことではないんだよな。子どもたちに、陸上競技のここがオイシイところだよ、とアピールする材料が思い浮かばない。指導者でなければ、自分が楽しいからやっている、で問題ないのだが、仮にも指導者を名乗るのなら、その辺りの自分の考えを持っておくべきだろう。
自分の競技者や指導者としての実績に自信を持てないから、教え方のスタンスも定まらないのかもしれない。かといって、自信満々の指導者もイヤだなぁ。
(尾原 陽介)
出版元:晶文社
(掲載日:2021-04-10)
タグ:感覚
カテゴリ 身体
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目の見えないアスリートの身体論 なぜ視覚なしでプレイできるのか
伊藤 亜紗
ルールに縛られる
日本が史上最多のメダル数を獲得したリオ・オリンピックはずいぶん堪能させてもらった。水泳はもとよりレスリングやバドミントンでの勝ち方を見て、日本人の気質がずいぶん進化しているとまで思ってしまうほどだった。一緒に観戦を楽しんだ小学校3年生の息子は、さまざまな疑問や質問を投げかけてきた。どうして卓球台はあんなに狭いの? 試合時間がもうちょっと長かったら絶対勝ってたのに!
そんな素朴な問いかけに答えるうちに、今さらながら競技スポーツがルールにがんじがらめに縛られてることに強い違和感を感じてしまった。いや、もちろんルールの存在意義や重要性は重々承知している。規制が厳しいからこその競技であり、その制限の中でありとあらゆる方法を駆使して磨き上げられた技が心を震わせること も身をもって知っている。しかし、スポーツのルールなんてそもそも不公平なものだし、最近のスポーツは科学的という言葉を背景に、やるべきことやしてはいけないことが多過ぎるのではないか。もっと、おおらかでいいかげんな部分が残っていてもいいのに、とそんな風に感じてしまったのだ。
もちろん自分がトレーナーとして現場に出たなら、万全の準備のために当たり前にやるべきことのレベルをできる限り引き上げることに腐心するわけで、自分でも矛盾を自覚している。この感情が溢れてきたのは、自分がその場で折り合いのつくルールを決めながらそれでも結構ゆるい感じで工夫する子どもたちの「遊び」に、身近で浸りすぎたせいかもしれない。
スポーツの空間
さて本書では、視覚障害を持つアスリートの「世界の認識の仕方や身体の使い方」を選手へのインタビューを通じて解きほぐそうとする試みが描かれている。著者は美学と現代アートの専門家である伊藤亜紗さん。
冒頭部分でいきなり私の違和感をピタリと表現してくれた。「スポーツの空間はエントロピーが小さい空間である」と。そう「自由度が低い」のだ、スポーツというものは。本書にあるようにこれは決してネガティブなことではなく、「運動の自由度を下げることで、競争の活性化を高める」重要な特性である。そして視覚障害を持つアスリートにとっては、このエントロピーの小さいスポーツの空間というのは、日常生活よりもずっと「見えやすい」場所なのだと言う。その空間で自分たちの持つ能力をいかに高め活かすのか、障害者スポーツを観る目を開かせてくれる驚きが彼らの話から次々に飛び出してくる。
確かにオリンピックの熱が冷めやらないうちに始まったパラリンピックを観ていると、この人たちはどんな工夫を重ね、どんな想像力を持って何を創造しながらここにたどり着いたのだろうという興味はオリンピックより格段にたくさん湧いてくる。選手の競技に対する取り組みの濃度については比較できるものでなく双方極限の濃密さだろうが、 パラリンピック選手のほうがひとりひとりの特異性がより高く、エントロピーは相対的に大きいと言えるだろう。
オリンピックが「ドラゴンボール」的であるのに対して、パラリンピックは「ジョジョの奇妙な冒険」的とでも言えば伝わる人には伝わるのだろうか。多様なルールによって公平に近づけようとはしているが、それでもあからさまな不公平さが垣間見えるパラリンピックの中で、自分の持つ能力を創意工夫によって引き上げ、懸命に闘った選手の笑顔や涙を観ていると、本来のスポーツが持つ価値というものがより濃く感じられるのだ。
パラリンピックならではの価値を
本書で取り上げられている視覚障害者スポーツを捉える著者の聡明さは此処彼処で強く感銘を受けるのだが、インタビュアーとしては少し押しが強いとも感じた。そこはあなたの言葉でそんなに綺麗にまとめないで欲しかったと感じる箇所が散見されたからだ。同じ競技のアスリートを数名集めた座談会 の形で司会進行に回ったほうが、もっと生の感覚を生の言葉で引き出せたようにも思う。
障害者スポーツを支える多くのサポートスタッフもどれだけの試行錯誤を繰り返し、自分の関わり方を推し量るのだろうか。そんな中、リオ・パラリンピック日本選手団の成績について日本パラリンピック委員会(JPC)会長が「金がゼロなのは予想外。周囲の期待に応えられず残念」と語った。東京オリンピックを睨んでさまざまな思惑があるのだろうし、選手たちはトップアスリートとして金メダルを獲るために日々戦っているのだろうが、できるならメダル数よりそんな選手やサポートスタッフを讃えて、パラリンピックならではの価値を発信してもらいたいと思う。わざとらしい美談につくり上げるまでもなく、多くの驚きがそこにあるだろうから。
オリンピックスポーツであろうがパラリンピックスポーツであろうが、どの選手も同じアスリートとして同様に尊重すべき対象であることに違いはないが、それでもオリンピックとパラリンピックの立ち位置は違っていいように思う。より多くの人の「ポジティブ・スイッチ」を押せるのは、メダルの数では測りきれないのだから。
(山根 太治)
出版元:潮出版社
(掲載日:2016-11-10)
タグ:視覚
カテゴリ 身体
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どもる体
伊藤 亜紗
吃音と呼ばれるその状態は、体が思い通りにならない、言うことを聞かないために、発声がスムーズにいかない、ということを指す。
本来、随意的に行えるはずの発声に支障をきたす、ということは、社会活動にも差し障ることが少なくない。
ひとには元々、コントロールできない体がある。内臓などを支配する自律神経がわかりやすい。吃音と同じような問題でいえば、イップスだろうか。ともかく、ひとには思い通りにならない体がある。どもる、という事象を取り上げて、そのことを考える、というのが本書である。
実は吃音というのは、身近な現象である。多くの著名人が吃音であることを告白している。話すことや歌うことが生業のひとであっても、吃音のひとはいる。スキャットマン・ジョンも吃音であり、あの高速スキャットはむしろ、自由にどもる方法だった、という。
興味深いのはシチュエーションによって、吃音が出ない、ということだ。しかし、必ずしも緊張していることがきっかけとは限らない、という。きわめて個人差が大きいのだ。大きい括りでは、連発と難発がある。連発は同じ音を連続して発声してしまうこと、難発はそもそも発声がしにくく止まってしまうことをいう。苦手な音があるため、さまざまな工夫をする。難発は連発を避けるため、という面があり、苦手な音を避けるための言い換え、などがある。さらに、忘れたふりをして相手に言ってもらう、という方法もあるという。自分の名前に苦手な音がある場合は、まさか忘れたとは言えないために、とても困るらしい。
リズムに合わせると話しやすい、ということもある。「えー」「あのー」などのフィラーを、発声のためのトリガーとして利用しているひともいるという。言い換えや、ストックフレーズに頼ることによって、その場はやり過ごせても、本来自分が言いたかったこと、表現したかったことを避けてしまう、ということにフラストレーションを感じるひともいる。
そのため、自由にどもることに快感を覚えるひともいて、「どもる」ということひとつとっても、ひとくくりにはできそうもない。
(塩﨑 由規)
出版元:医学書院
(掲載日:2024-06-14)
タグ:吃音
カテゴリ 身体
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