遺伝子 vs ミーム
佐倉 統
著者は理学博士で、もともとの専門は進化生物学だが、科学史や科学論の領域に焦点を移し、生物学の理論受容史や科学技術と社会のあるべき関係を探索中とのこと。
「ミーム(meme)とは、文化的情報の伝達単位である。生命情報の単位が遺伝子であることからのアナロジーとして連想されたもので、言い換えると、文化システムを生命システムからのアナロジーで記述するための基本的な概念である」(P.13)
この概念は「利己的遺伝子」で知られるR・ドーキンスが考えたもので、批判もある。だが、ここでは著者のこの言葉を引用しておきたい。
「ぼくはミームという概念の有効性は、定量的な記述や予測などではなく、比喩やアナロジーにもとづく問題発見能力にあると思う」(P.214)
物を考える視点(あるいは技術)はいくつも持っているほうがよい。学問もスポーツもミームに満ち溢れている。簡単に読めるようで、考えるところが多く残される本である。
新書判 230頁 2001年9月1日刊 1000円+税
(月刊スポーツメディスン編集部)
出版元:廣済堂出版
(掲載日:2001-11-15)
タグ:遺伝子
カテゴリ 生命科学
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遺伝子vsミーム
佐倉 統
2010年サッカーのワールドカップで、日本はベスト16になった。予選リーグで敗退した前回ドイツ大会では、チームが一つになりきれなかったことが敗因であると言われた。今回のチームは、その教訓を活かし、チームが一つの方向に向かうことができたという。
人間の人間たるゆえん――それは、遺伝子からは独立した形で情報を次の世代に伝えることができることである。つまり教育と学習によって、文化伝統を伝えていくことができる生き物が、人間であると。
世代を越えて継承されていく情報システムとういう特徴を兼ね備えた文化は、人間以外の動物にはほとんど存在しない。そして、この文化の情報伝達単位を「ミーム」と呼ぶ。著者はこのミームが、民族問題・教育問題・老人問題などを解決するヒントになるのではと語る。
人間は、望むと望まざるとにかかわらず、ミームを受け継ぎ、受け渡してしまう ―つまり学ばざるをえない―生き物なのである。 だからこそ、教育が大切であり、ミームの乗り物たる老人がもっともっと子供と接する機会を増やすべきだと。
日本中を熱狂させた、サッカー日本代表は、まさに「ミーム」を受け継ぎ、それを活かした好例である。「ミーム」=「侍魂」と置き換えてみると、またおもしろいようだ。
(森下 茂)
出版元:広済堂出版
(掲載日:2012-10-16)
タグ:遺伝子 ミーム
カテゴリ その他
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科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点
佐倉 統
役に立たないという現実を知って
「世の中にはな、ふたつのものしかない。役に立つものと、これから役に立つかもしれないものだ」。
本稿の締め切りが迫る某日。焦るとつい他のことをしてしまうのは人間の性だ。ベッドに転がって iPad を開き Kindleに逃避。たまたま開いたのが『竜の学校は山の上』(九井諒子)というファンタジーコミックだ。ああこれ、今回の『科学とはなにか』じゃん、と思った。こういうのをセレンディピティというのかな(たぶん違う)。舞台は現代日本。竜が絶滅危惧種に指定され保護されているが、年々予算は縮小されている、という世界。国内唯一の竜学部がある宇ノ宮大学には竜の利用方法を模索する竜研究会がある。新入生のアズマ君は竜が好きで、将来は竜に関わる仕事がしたいと思っているが、竜は役に立たないという現実を思い知り落ち込んでしまう。冒頭のセリフは、そんな彼に部長のカノハシ女史が言った言葉だ。カノハシさんは続ける。「なくしてしまったものを、あれは役に立たなかったってことは言えるけど、それは所詮、狐の葡萄。だから簡単に捨てちゃいけないんだ。でも役に立たないと諦めたら、それでは捨ててしまうのと何も変わらないだろ」。
科学を外側から
今回取り上げる『科学とはなにか』は、竜ではなく科学技術をどう飼い慣らす(使いこなす)かを、つかず離れずの外側の視点から見ることがテーマである。著者はチンパンジーの研究で理学博士号を取得したが、その過程で、科学が社会と無縁ではいられないことを痛感し、学者にはならず科学技術と社会の関係を研究する道を選んだという。科学者としての側面を持ちつつも、あくまでも「外側」の方である。
副題に「三つの視点」とある。明確には分けて書かれていないのだが、この「視点」が本書を読む上での重要な骨子であると思うので、私なりに三つにまとめてみた。
まず、一つ目。科学技術とは何か。科学とは自然界の成り立ちを知ること、技術とは人工物をつくること。本書では、両者の融合体という意味で「科学技術」という言葉が多用されている。科学の成果は普遍的で客観的である。ニュートンの力学法則は、日本だろうがアメリカだろうが、どこでも等しく成り立つ。しかし、いつでもどこでも「正しい」知識というのもまた、存在しない。我々は、場面や状況に応じて、それに適した知識を使い分けているのだ。たとえば、今では天動説を信じている人は珍しいだろう。しかし日常的には「夕日が沈む」というように、天動説的表現が普通に使われている。「地球の自転によって現在地が影の部分に入りつつある」とは言わない。日常生活における知識の目的は、「便利」「幸せ」「安全」など、とにかく日々の生活を安定・充実させることが第一。科学的な正確さは、そのための参考情報の一つに過ぎない。
二つ目は、科学技術は誰のものか。科学者というと、知的好奇心に突き動かされ、損得や善悪に無頓着で、純粋に世界の成り立ちを解き明かしていく人というイメージがある。一方、フランシス・ベーコンが「知識は力なり」と言ったように、科学や知識は利用するものである、という認識もまた一般的だろう。実際に我々は、多くの場面でその恩恵を受けている。しかし「力」は良いことばかりではない。不幸な例の最たるものは戦争利用だろう。2 度にわたる世界大戦での悲惨で凄惨な経験を経て、1999年「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」(ブタペスト宣言)において、「知識のための科学」「平和のための科学」「開発のための科学」「社会における科学と社会のための科学」の 4 つの宣言が採択された。しかし、科学研究分野にも民間企業が台頭し、そのあり方が大きく変質してきている。科学を駆動する原理が、知識の獲得や公共への貢献から経済活動へと変わってきているのだ。
最後の三つ目は、科学技術をどう飼い慣らすか。科学の成果は普遍的・客観的ではあるが、それが生み出されるプロセスも、それが世に出てからの扱い方も、文化システムが違えば大きく変わる。一方、文化や文脈に依存する暗黙知的な「場の力」から離れ、科学的知見を活用できるような社会的なデザインも必要だ。
さて、「竜研究会」。竜の使い道についてのカノハシさんたちの結論は、作品中では語られていない。どうかそれぞれに明るい未来が訪れますように、と願わずにはいられない。
(尾原 陽介)
出版元:講談社
(掲載日:2021-12-10)
タグ:科学論
カテゴリ その他
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