ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと
村上 靖彦
著者は冒頭でこう言う。
「本書では、身体医学と精神医学を連続的に扱い、医療や福祉、ピアサポートなども連続的に扱う。さらには、心と身体と社会も連動的に語られることになる。特に身体については、医療行為の対象となる『臓器』としての側面ではなく、私たちが内側から感じるあいまいな〈からだ〉としての側面にクローズアップしていく。
内側から感じる〈からだ〉の感覚や動き、好不調、気分といったものは、日常的に『心』と呼ばれているものと混じり合う。つまり、私たちの内側からの感覚という視点に立ったとき、身体は客観的に扱うことのできる『臓器』ではなくなり、心と〈からだ〉の区別はあいまいになっていくのだ。」
あいまいなものはとかく排除されがちだと思う。とくに、客観的な指標が重視される現代医学では、画像で表れないもの、数字で示せないものは、「無い」に等しい。しかし、その原因がどうしたってわからないものでも、症状があるという状態はある。とすると、指の隙間からこぼれ落ちるもの、それはささいな、取るに足らないことかもしれないが、見逃すべきではない。
人が発するどんな表現であれ、キャッチする人がいて初めてサインとなる。それは「SOS」として聴き取る人にとってのみ、サインとしての機能を果たし、そしてしばしば、聴き取ることそのものが、ケアとなる。
それは存在を認める、という応答なのだろうと思う。
責任:responsibilityは、レスポンス(反応)するアビリティ(能力)を持ったひとが負うものだと、聞いたことがある。
イヴ・ジネストによって提唱されたユマニチュードという認知症ケアの技法では「目を合わせること」を重要な要素としている。なぜかというと、相手を見ない、ということは、「あなたは存在しない」というメッセージを送ることになる。「あなたは、ここにいるのですよ」というメッセージを送ること、これがユマニチュードの原点だという。
ケアするひと、ケアラーには一般には考えられないほど、感覚の鋭敏性が光る。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の母親を看病する川口さん(逝かない身体)の場合を、著者はこう書く。
「母親の身体は動かないが、娘は代わりに身体の発汗や熱を〈からだ〉のサインとして読み取る。〈中略〉発汗や発熱は生理的な現象であって、意図的な意思表示ではない。それでもこれらがサインたりえているのは、身体の生理現象を〈からだ〉からのサインへと翻訳するケアラーの側の感受性ゆえである。生命を感じ取るという仕方で、川口は母親との〈出会いの場〉を開き続けている。」
ある本で、ALSの患者さんを数人で介助しているグループの対談を読んだ。印象に残っているのは、介助している人たちの「発声の仕方」が、静かにお腹から声を出している、というインタビュアー側の感想だった。
受信モードに徹する介助者には、自身の声でサインをかき消してしまわないように、という配慮が板についている。
ケアの視点で見たときに、身体医学と精神医学を区別する必要は必ずしもない。本書で用いてきた〈からだ〉という概念は身体と心の双方にまたがる経験だ。心身の区別は、そもそも西欧医学が学問的に導入した人為的なものにすぎない。
不眠に悩んだり自傷行為に走る女性たちが、ボディワークとグループセッションによって、身体性と過去のプロセスを再確認し、自らの言葉を獲得する例や、ユージン・ジェンドリンの「フォーカシング」によって、悩みを思い浮かべたときの身体感覚に着目し、言語表出することで、イメージが変容し、実際に身体が楽になる、という例などは、心と身体は分けられないということを示している。
著者はケアについてこう語る。
「ケアは人間の本質そのものでもある。そもそも、人間は自力では生存することができない。未熟な状態で生まれてくる。つまり、ある意味で新生児は障害者や病人と同じ条件下に置かれる。さらに付け加えるなら、弱い存在であること、誰かに依存しなくては生きていけないということ、支援を必要とするということは人間の出発点であり、すべての人に共通する基本的な性質である。誰の助けも必要とせずに生きることができる人は存在しない。人間社会では、いつも誰かが誰かをサポートしている。ならば、『独りでは生存することができない仲間を助ける生物』として、人間を定義することもできるのではないか。弱さを他の人が支えること。これが人間の条件であり、可能性でもあるといえないだろうか。」
紹介しきれなかったが、ミルトン・メイヤロフのin place、ドナルド・ウィニコットのホールディング、熊谷の、自立は依存先を増やすこと、など、ケアを読み解くヒントとなるキーワードが溢れている。
(塩﨑 由規)
出版元:中央公論新社
(掲載日:2022-06-06)
タグ:ケア
カテゴリ その他
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客観性の落とし穴
村上 靖彦
客観性という概念はたかだか200年くらい、特に西洋文化のなかで言われはじめたに過ぎず、まるで統計や数字が、事物や事象、あるいは人そのものを表しているような風潮は行き過ぎではないか、それらが有用なデータであるのは確かにそうだが、その尺度だけでは測れないものがあるだろう、というのが、大雑把なまとめになるだろうか。
実際のインタビューではだいたい2時間くらい、話を聞く。そのときの話の流れで、即興的な語りを聞く。
意識せずに口をついて出てくる言葉から、浮かび上がってくる、それぞれの経験。交わらないリズムとして表現される生々しいリアリティを読む。それではじめて分かることがある。
統計や数字をみてわかる傾向と、個別の視点に立ちはじめて腹落ちする現実があると思う。
数年前、あるひとに話を聞いた。アメリカで海洋生物学を学んでいた大学時代、難病を発症し、帰国を余儀なくされた。そこから闘病生活に入り、手術をするかどうかの決断を迫られることになった。医師からはかなり高い確率の成功率と、きわめて低い失敗率を伝えられた。
でもそれってなんの慰めにはならない、自分にとっては生きるか死ぬかであり、コインの裏表どちらがでるか、つまり半分なんだ、とそのひとは言った。それはとても、説得力のある言葉だった。
統計や数字でわかることがたくさんある一方で、今を生きる現実存在を取りこぼすことも多々あるのではないだろうか。客観性のみを真実とすることはかなり危うい。
(塩﨑 由規)
出版元:筑摩書房
(掲載日:2023-07-25)
タグ:客観性
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